つらいことからは逃げてしまえばいい。覚えておく必要なんてない、すべて忘れてしまえばいいんだ。気持ちも、思い出も、その人も、何もかも。気持ちには蓋をして、思い出は消しゴムで消して、その人は頭の中から追い出してしまえばいい。たったそれだけのことだ、つらい思いをするより楽。でもそれだと自分も傷付いて、相手も傷つける。
だから気付かれないうちに私は忘れてしまった。誰も、自分でさえ知らないうちに、大切なことを。
それは、過去のことだけに当てはまるわけではないのだ。















こうしてただ観覧車を見つめて、どれくらいの時間が経っただろうか。かなりの時間をそこで過ごしたような気もするし、1,2分のような気もする。私は誰かに肩を叩かれてようやく我に返った。振り向くとそこには少し息を切らせている秋ちゃんの姿。


「ゆいちゃん!探してたのよ?戻ってくるって言ったのに、戻ってこないから…」
「あ…ごめん、ぼーっとしてた」


息も整ったのか私の肩から手を離してじっと此方を見る秋ちゃんの表情は何処となく心配そうな感じで。私はもう一度「ごめんね」と謝った。


「あっ、そうだ!色々あって、一之瀬くん結婚しなくて済んだの!」
「え」


ぱっと目を輝かせて言う秋ちゃんの言葉をすぐには理解し損ねて反応に遅れてしまったけれど、徐々にほっとした気持ちが心を満たしていく。しかしでも、と考え直すとそれも一瞬のことだった。一之瀬くんにはリカちゃんじゃなくても他に好きな子がいる。結局私の中で問題は解決していないんだ。


「あ、でも…その…」
「どうかしたの?」
「えっと…」


急に秋ちゃんが口を間誤付かせて言いづらそうに目を逸らす。何のことかと首を傾げていると少し遠くの方から言い争うような声が聞こえてきた。秋ちゃんは大袈裟に跳ね上がって目を泳がせる。その背後へ視線を向けると、私も少し息を呑んだ。


「ダーリン、そんな逃げんでええやん!」
「だからダーリンじゃないって!」
「またまたぁ、照れんとってーな。照れたダーリンも素敵やけど!」
「照れてない!」


一之瀬、くん。その腕に抱きついているのは浦部リカちゃんだ。擦り寄るようにして抱きつくリカちゃんの目はまさにハートの形をしていて、本当に一之瀬くんのことを好きになってしまったんだと分かる。胸の奥が締め付けられた気がして、一度は引いたはずの痛みが再発した。
それでもさっきよりはかなり落ち着いた。つらいことからは逃げてしまえばいい。卑怯でもなんでもいい、自己防衛が一番大切なんだ、私は私が一番大切。苦しい思いもつらい思いもしたくない。そう思って少し俯いた。秋ちゃんが慌てたように私に話しかける。


「い、一之瀬くんは嫌がったの!でも、」
「大丈夫だよ、気にしてないし」
「え?」
「私には関係ないもん。一之瀬くんが誰と仲良くしようが、ね」


息を吸って、秋ちゃんに笑いかけた。自分でも驚くほどはっきりと声が出た気がする。でも、と続けようとする彼女に私は手を差し出して制する。それ以上、続けないように。
次第に私たちに近寄ってきた一之瀬くんたちはようやく私のことに気付いたようで、彼は少し戸惑ったような表情を浮かべた。


「あ…藤城…」
「なんや、あんたさっきの子やん」
「い、いいから、早く離れて…!」
「嫌や!うちは一生ダーリンから離れへん!」


慌ててリカちゃんを腕から離そうとする一之瀬くんと幸せそうな顔のリカちゃん。私はしばらく呆然とその様子を見つめていたけれど、私の方を見て焦ったように一之瀬くんが話し始めるとそちらを向いた。


「藤城、俺、結婚なんかしないから…」
「何言うてんのダーリン!ダーリンとうちは近い将来結婚する運命やねんから!」
「っリカ、いい加減に…!」
「いいじゃん、結婚」


ぴたり、と両者の動きが止まった。急に二人が黙った所為か園内の音楽がやけに大きく聞こえる気がする。驚いたままの二人に私はにっこりと笑みを向けた。


「リカちゃん、私、藤城ゆいって言うんだ。結婚してお好み焼き屋さん作ったら、食べに行ってもいい?」
「ゆいか…あんたええやつやな!もちろんやで、うちがめっちゃ美味しいお好み焼き作ったるわ」
「え、藤城…何言って…」
「…ははっ、一之瀬くんってば、なんて顔してんの」


段々と悲しそうな表情に変わる一之瀬くんの顔を見て胸がまた悲鳴を上げるのを聞く。それでも私は笑うことをやめなかった。冗談めかして一之瀬くんを見つめる。思っていることとは、全部真逆のことを口にする、私。


「焦ることないじゃん。よかったね、いい子見つけて」
「…」
「“応援”してるよ、一之瀬くん」
「っ、藤城…!」


自然に、言ったつもりだ。隣にいるリカちゃんはにこにこと嬉しそうに笑ってるんだから、おかしくは聞こえなかったんだろう(秋ちゃんは驚いた顔をしていたけど)。でもそれも限界で、ボロを出す前に一之瀬くんたちの元を離れようと彼らが歩いて来た方向に歩を進める。でも、それは叶わなかった。リカちゃんに掴まれているのとは逆の手で、一之瀬くんが強く私の手首を掴んだからだ。その冷たさに驚いたけれど、大きな反応を示さないようにしながらゆっくり振り向く。
一之瀬くんは、とても切なげな表情を浮かべていた。


「藤城っ、俺はそんな言葉を聞きたかったわけじゃ、」
「…私は一之瀬くんの【友達】だもん、応援するのは当たり前でしょ」


彼が息を呑むのが分かった。我ながら久々に刺々しい言葉が出たと思う。何も言わなくなった一之瀬くんの手を少し乱暴に振り払って、私はその場を後にした。
――ごめんね、だって、こうでもしないと私がおかしくなりそうだったんだ。














また逃げてしまった、そう思いながら自己嫌悪に浸る。後悔なんてするだけ無駄だ、それでも私の頭の中は後悔でいっぱいだった。自己防衛のためとは言え、出逢った当初のような言い方をしてしまう。自分の意思だけれど、自分の意思じゃない。あんな酷いことを言いたいわけじゃなかった。
気付けばそこは浪花ランドの外だった。車が通る音が聞こえ、走っていくその金属の塊をぼんやり見つめる。道路の上に吐き出される排気ガスは、一之瀬くんに友達だと言った時の私の気持ちの色を表しているようだ。


(応援なんて、できるはずがない)


だってもう自分はこんなに嫉妬心で支配されている。あんなことを言いながらも彼を好きだという気持ちを抑えられてはいないんだ。その矛盾に自分自身何とも言えず、ただ黙って俯いた。初めての感情ばかりが自分の中でぶつかって、言い合って、私の胸の中を曇らせる。それを吐き出したいという欲求から、大きく溜息を吐いた。
刹那、強い力で手首を後ろに引かれた。誰だろうと振り返ると、さっきみたいに秋ちゃんではなく、私をこう思わせている張本人が立っている。思わず目を見開いた。


「い、ちのせ…く、ん」
「はぁっ…歩くの早いね、藤城」


一之瀬くんは軽く目に掛かる髪を払ってからまるでさっきのことがなかったかのように言葉を紡ぐ。逃げたはずなのに、どうして此処に、いるの。


「リカちゃんは…?」
「無理矢理離して、秋に預けてきた。他のみんなは今からリカたちのチームが使ってる秘密の場所ってところに行ってる」
「…一之瀬くんも、行かなきゃじゃん」
「俺も後で行く。でもその前に、どうしても藤城と話したくて」


どうしてそうやって真っ直ぐ私を見るんだろう。私はこんなに歪んだ感情でいっぱいになっている人間なのに、一之瀬くんのように真っ直ぐでもなければ素直でもない。出逢った当初から思っていた。どうすれば彼のように真っ直ぐな人になれるのかと。手首を握る彼の手に、また少し力が篭められた。


「俺、本当にリカとはなんでもないんだ。だから、」
「ねえ、一之瀬くん。どうして何度も私にそう言ってくるの?」
「え」


分からない、分からない。一度溢れた嫌な気持ちは治まる気配を見せず、それは以前のように一之瀬くんに牙を向いた。


「私は、一之瀬くんが誰と結婚しようが、誰を好きになろうが、どうでもいい」
「…どう、でも…」
「だから安心して二人で幸せになればいいと思うんだ。私のことはいいから」


心の中でもう一人の私が違う、そうじゃないと必死に反論する。けれどそれを受け入れることもなく、私はその気持ちから目を背けた。つらい想いから、逃げたくて。


「一之瀬くんは、私に構う必要なんてないよ」
「…必要とかそんなのじゃない、俺は自分の意思でこうしてる」
「どうだろう…、君は優しいから」


言われては突き放し、一之瀬くんから目を離す。胸の中を何とも言えない気持ちが支配し始めていた。


「藤城、俺は自分がしたいように行動してるだけだ」
「…そんな優しさ、いらないよ」
「優しさとかそういうのじゃ、」
「もう、離して!」


自分でも驚くほど大きな声が出ると同時、私は一之瀬くんの腕を無理矢理振り払っていた。嫉妬という気持ちで胸の中を掻き乱され、自分が自分じゃなくなっていくような気さえする。一之瀬くんは驚いたように目を瞬かせ、行き場のなくなった手を彷徨わせていた。


「一之瀬くんにはちゃんと好きな子がいるんでしょ?その子のところに行けばいいじゃん」


言いながら一歩、私は後ろに後退した。不意を突かれたのか目を瞬かせる一之瀬くんは瞳を揺らして私を見つめる。


「わ、私みたいなただの友達に、どうしてそこまで構うの」


また一歩、下がる。


「私が調子に乗っちゃうから、やめてよ…」


震える声を抑えようとしたけれど、それも叶うことはない。止んでいたはずの頭痛が少しずつぶり返してきて、気分は最悪だった。一之瀬くんが、意を決したような表情を浮かべて私を見る。


「…藤城、聞いて。俺が、俺が本当に好きなのは、」
「っ嫌、聞きたくない!」


きっと聞いてしまえば私はその子に今の気持ち以上の嫉妬心を抱いてしまう。両耳を塞いで目を瞑り、私は一之瀬くんに背を向けて駆け出した。何も聞かなくていいように、見なかったことにできるように。
ふと目を開けると眩しいライトに照らされていて、耳障りなクラクションが耳を突く。目の前には大きなトラックと、灰色のコンクリート。トラックは止まる気配を見せないまま、今だけは映画のワンシーンみたく全ての時がゆっくりに見えた。ブレーキの音、それに紛れて声が聞こえた。


「ゆい!」


瞬間私は誰かに突き飛ばされる。上手く受身など取れるはずもなく、私は地面に強く頭を叩き付けた。それでもトラックに轢かれたわけではないようだ。朦朧とした意識の中なんとか辺りを確認しようとしたけれど、目の前に広がっているのは赤だけだ。

そのままぷつんと糸が切れるようにして、私の意識はフェードアウトしていった。



名前を呼ぶ声が、

(懐かしいあの人と、重なった)






人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -