ガゼルさま、そう名前を呼ばれてもあえて本から顔を上げなかった。静かな部屋にページを捲る音が響く。ふわりと外から吹いた風がカーテンを揺らして、この部屋を居心地の良いものに変えた。


「ガゼルさま」
「なんだい、騒々しいな」
「ごめんなさい、ガゼルさま。あの…」


その。ええっと。口を間誤付かせながら結局何も言おうとしない彼女に小さく溜息を吐きそうになる。わたしは彼女のことをエイリアで授けられた名前ではなく本名で呼ぶようにしていた。理由?そんなものはない。ただわたしがそう呼びたいからだ。


「言いたいことがあるならはっきり言いなよ」
「は、はい、ごめんなさい、ガゼルさま…」
「何か用があるんじゃないの」
「あの…ですね…」
「まさか何もないわけじゃないだろう」
「その…」
「…」


なんだこいつは。人の読書の邪魔をしておいて何の用もないと言い出したものだから、思わず気分を害して眉間に皺を寄せてしまう。そんなわたしの表情に怯えたのかなまえは不安げに瞳を揺らして、またこう言った。「ごめんなさい、ガゼルさま」こいつは何度私に謝れば気が済むんだ。謝らなくていいようにはできないのか。


「でも、ガゼルさま」
「なに」
「あの…っ」


けれど不意になまえがとても悲しそうな顔をしてわたしを見つめてきて、思わず続けるつもりだった言葉を失ってしまう。その揺れていた瞳から一粒涙が零れて、わたしの読んでいた本に一つ、染みを作った。


「何か用事がないと、大好きな人に逢いにきてはいけないんでしょうか…」
「え」


そう言われた途端気付くわたしもわたしだ、鈍感だと思う。一度自身に対してもなまえに対しても大きく溜息をついて、もう一粒零れそうな涙を指先で拭ってやった。驚いたような声が彼女から漏れる。


「逢いにきてはいけないなんて言ったつもりはない」
「ご、ごめんなさい、ガゼルさま、」
「だから謝る必要もないよ」
「えっ、ごめんなさ…あっ、違う、」


悲しそうな表情を浮かべていたかと思いきやすぐにあたふたと慌てだす彼女は本当によく分からない人間だ。けれどわたしはそんな彼女を嫌だと思ったことは一度もなかった。むしろ今わたしの中に芽生えているものは、


「きみは本当に馬鹿だね」
「…ごめんなさい、ガゼルさま…」
「でもそんなきみが、」


好きだよ。
そう言うとなまえの表情が少しずつ可愛らしい笑みに変わっていって、本当に幸せそうな顔をして口を開く。馬鹿だけど、そんな馬鹿を好きになってしまったわたしもそれなりに馬鹿なんだろう。そう半ば諦めて読んでいた本をぱたんと閉じた。


「私も大好きです、ガゼルさま」


さて、緩む頬の理由はまた後で考えることにしようか。



100120/また後で

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