Rest of this story(続編)






「やあ名前殿、怪我の調子はどうかな」




思わぬ人物に名前は抱えていた書簡を床に落とし、苦虫を潰したような顔をした。郭奉孝、何故この男が私の部屋でくつろいでいるのか。一見ただの優男にしか見えないが実は神算鬼謀の才能を持ち、曹孟徳の覇業を助け大殿からは絶大なる信頼を寄せられている男だ。現に先の戦も彼の才、そして賈ク殿の策謀で勝利へと導いた。
それは我が軍にとって喜ばしいことなのだが、素直に喜べない複雑な心境なのはやはりこの男が苦手なのだからだろう。荀イク殿がこの男を推挙したようだがもっと他の者はいなかったの…いや、荀イク殿を責めるのはお門違いにもほどがある。ごめんなさい荀イク殿。

前の河原での出来事、あのおかげで余計にこの男に対する不信感を覚えてしまった。だけどこの人は依然として気にしていないようなの態度を取るものだから余計に面白くない。

動揺で落としてしまった書簡を素早く拾い上げ、冷静を装いつつ郭嘉殿を見据えた。どうやら顔の傷は治ったらしく、若干の安堵を覚えた。









「勝手に私の部屋に入らないでもらえますか」

「勝手にではないよ。名前殿に用があると言ったら女官が通してくれたんだ。すぐ戻られるでしょう、って」



厚意で女官が用意したであろうお茶や水菓子が机に用意されていて、それを躊躇いもなく茶を啜りながら名前殿もいかがかな?と訊いてくるこの男は神経が図太いのかそれとも呑気なだけなのか。どこまでも食えない男。以前のようにあまり近づきすぎると危ない策に嵌ることは目に見えている。できる限り交流を避けなければ。

未だじくじく痛む傷を悟られないよう痛む右腕だけで書簡を抱えた。




「私のことなら心配いりません。お引き取り願います」

「そういうわけにはいかない。私が名前殿の腕を故意に掴んだせいで悪化しているかもしれないからね」

「あれは私の不注意、どうせ"詰めが甘い"人間ですから」



吐き捨てるように言った名前の言葉は以前郭嘉が彼女に残した言葉である。自尊心が高い名前はその言葉がずっと心中に引っかかっていたのだ。最も皮肉めいているが。
郭嘉はそんな名前を前に表情ひとつ崩されることなく微笑んでいるだけである。

余裕綽々としたその態度がまた感に障る、私一人が神経を尖らせているようで馬鹿みたいに思えてくるのだ。




「気にしていたのかな」

「全く」

「本当可愛いらしい方だ」



椅子を引いて立ったかと思えば郭嘉殿は此方に近づいてくる。交流は避けたい、本音はそうなのだけど武人故逃げることに抵抗があることも本音だった。
相変わらずの近距離まで近寄る郭嘉殿に抱えていた書簡に自然と力が入り、眉根を寄せる。すらりと袖口から伸びた白い手が書簡を捉えれば「貸して」と言われ、抵抗せずに手を離す。面倒事に巻き込まれるのはもう勘弁だったから。郭嘉殿は書簡をその場で広げて軽く目を通し、うんと頷く。




「陳羣殿に渡すものだね、渡しておくよ」

「結構です、私が夏侯惇将軍に任されたものなので自分の手でお渡しします」

「夏侯惇殿は私にも目を通すように言わなかったかな?」




なんで、知っているんだろう。
なんて陳腐な疑問はどうでもいい、たった一瞬書簡に目を通しただけで自分にも関係のある内容だと理解したのだろう。確かに夏侯惇将軍は郭嘉殿にも必要なことだと仰っていた。右腕に注がれた視線を察し、大人しく書簡を渡すと男は満足そうに微笑んだ。ほら、出たよ。何でもお見通しなんだ郭嘉殿は。腕が痛むこともお見通しなんだろう。

そうだ、お見通しだから苦手なんだ。しかも苦手なことを理解して痛いとこを突くから余計にたちが悪い。胡散臭くて捻くれ者の賈ク殿もあれだが、あの人は私に侵蝕してこないからまだマシだ。この男は全てを知っているうえで弄んでいる、嫌な男、最低だ。ふつふつと沸き上がる感情、それは怒りだった。




「きらい、だいきらい、郭嘉殿なんて大嫌い」



子供のように怒りを誰かにぶつけるのは初めてだった。しかも自軍の人間相手に。でも行き場のない感情をぶつけるにはどうしようもなくて。そうだ苦手じゃない、嫌いなんだ。なんで今まで気づかなかったのだ。もうこれ以上侵蝕して来られるのは億劫と思う反面、怖くもあった。

きらいだ、郭嘉殿にはっきり伝えると柔和に微笑む表情が一瞬だけ驚きの色に染ったかと思うと、顎に手を添え、首を捻る仕草をした。




「そう、嫌いか。なるほど」




郭嘉殿は籠に入ったみずみずしい桃を一つ手に取ると私の唇にそっと押し付けて、それを手渡す。桃の甘い香りが鼻腔を擽る。綺麗な手が私の手の甲をそっと撫で、覆いかぶさるように握った。思わず嫉妬しそうになるほど綺麗な手だ。




「嫌よ嫌よも好きのうちってね」




な、
予見もしなかった言葉に驚きを見せる名前に郭嘉は握っていた手を自身に引き寄せると、よく熟した桃へと齧り付いた。つう、と果汁が私の腕に伝っていることも気にする余裕などなく、ただ目の前の行為に驚いていた。
前のように手を振り払うことができなかったのは無理に振り払ったとき軽度といえど、傷を付けてしまったことが頭に残っていたのだ。だから身体が反応しなかった、そう自分に言い聞かせる。

一口だけ桃を口に運び、咀嚼して喉へと通す。たったそれだけのことなのにこの男はいちいち官能的な様になる。目を逸らしたくても行為に魅せられているのだ。腹が立つことに。



「またね名前殿」



ひらひらと手を振る郭嘉殿にただただ桃を握る手に力を込める。桃の汁で衣服が汚れることなどこと御構い無しに郭嘉殿の後ろ姿を呆然と目で送ることしかできなかった。

"嫌よ嫌よも好きのうち"

そんなことない、私は郭嘉殿が苦手なんだ嫌いなんだ。その言葉が頭の中で何度も繰り返すたびに否定した。ほんの些細なことでさえ翻弄されてしまう私はやはり彼が言うように詰めが甘いのかもしれない。


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郭嘉が誰だお前状態