綺麗な川を見つけた。女はじくりと痛む右腕を左手で押さえながら良かったと言わんばかりに早足で川に近付いた。だがそこには生憎先客が居たことに気づく。我が魏軍の軍師である郭嘉殿だ。本陣に戻っているはずの郭嘉殿がなんであんなところに…。彼の姿を見つけたとき一瞬ぎくりと心臓が跳ね、かっこ悪いけど後退りをしてしまった。どこか彼に対する苦手意識があるせいかあまり関わりたくないのだ。彼だけでなく同じ軍師の賈ク殿もどうも食えないところが苦手だ。この人にばれないように少し離れた場所で、と思ったが誰もいないこの場でそんなことできるはずもなく。私の足音と気配を察したのか郭嘉殿は柔和な笑みを浮かべて振り向いた。





「痛そうだね」

「…本陣に戻られたんじゃ?」

「利き腕を怪我か、ちゃんと動かせるかな?」

「私の質問に答えて下さい」




右腕に触れようとする郭嘉の手を名前は自身の体で庇うようにして触れさせようとしなかった。苦手だから警戒してしまうのかつい尖った態度を露わにしてしまう。そんな名前に郭嘉は表情を何一つ変えることなく微笑むだけだった。




「一度戻ったのだけど誰かさんが思った以上に本陣に帰らないものだから、ね」

「…軍師様直々にお迎えということですか。時間が掛かったのは確かですけど一人で戻れます」

「その上敵将にお土産まで貰ったということだね」




嫌味、だろうか。女にすこぶる甘いこの男が。だけどこの怪我の失態は私の責任であることは事実。しかし郭嘉殿と賈ク殿二人の軍師に指示された任務はちゃんと遂行したし、むしろ右腕を失くさなかっただけ良い方だと思う。




「傷口を洗い流しに来たのだろう?それなら酷くなる前にした方がいい」

「言われなくとも…。私に気にかけてる時間があるなら郭嘉殿は早く本陣に戻られてはいかがです?大殿が心配します」

「殿は名前殿の怪我のことも心配するだろうけどね」

「……」

「ほら腕を貸して」




利き腕の怪我を一人で手当するより相手がした方が効率がいい。そんなことは分かっている。でもこの人と一緒に時間を共にしたくなくて無理にでも陣に返そうとしているというのに。私が苦手意識を持っていることはこの人のことだ知っているんだろう。こんなにも露骨に態度で表しているんだから。それでも郭嘉殿は私への態度は変わりない。挨拶もするし酒の誘いもしてくる。それに寒気を覚える甘美な言葉を掛けたりとかも。…器が大きいのかただ単に守備範囲が広いのか。

手を差し出そうか躊躇していたところ郭嘉の手が名前の右腕を捕らえた。いきなりのことで少しだけ肩に力が入ってしまった。血で汚れた右腕を少しずつ水を掛けながら指先で軽く擦るようにして綺麗にしていく。他人から触られる感覚にほんの少し擽ったさを感じた。郭嘉は懐から布を取り出すと水に浸し軽く絞って患部を労るように手当をする。迅速なのに優しい手つきだからか思った以上に痛さを感じなかった。




「痛くはないかい?」

「今のところ…」




血で汚れた布を再度、水で洗い流して硬く絞る。それを患部に巻き付けて固定した。




「荒療治だけど止血はこれで平気だね」

「……どうも」

「名前殿、お礼を述べるなら私の目をしっかり見て言わなくては」




郭嘉殿の両手に頬を挟まれ優しい扱いなのにどこか強引に、伏せていた私の顔を上に向かせられた。触れられた手から伝わる体温が私よりも異様に低くて若干驚くが突然の行動に意表を突かれた名前は崩されることない郭嘉の笑みに睨みつける。いきなり何するんだ。だが睨んだといってもどうやら大した効果はないらしく、困ったね、と態とらしく呟いた。

悪ふざけを。これ以上あまり踏み込まれてしまうと今以上に悪い態度を出してしまいそうで嫌だった。距離を取ろうと顔に触れる手を左手で打ち払った際、私の伸びた爪が郭嘉殿の頬を思わず引っ掻いてしまったのだ。白い肌に血が滲む様を見て血が引く思いをした。



「か、くか殿」

「おや、その顔は私を心配している顔だね。どうやら嫌われてはないようだ」

「その、血が」



決してわざとではなかった。でもどうにも謝罪の言葉を上手く言えなくて、かと云って触れられた手を打ち払った矢先に傷に触れるわけにもいかなくて。どうする術もない私はただ拳を握り締めることだけだ。上手くいかない郭嘉殿の前だと。



「まさか敵より先に仲間に傷を貰うとはね」

「ちが、…!」




弁明をしようと声を上げるが郭嘉殿が人差し指を私の唇に当てがられ声を出すことを遮られてしまう。だから、あなたは、

名前殿。名前をふいに呼ばれたと思ったら、逃げられないように郭嘉殿の手は傷を負った右腕を掴んだ。思わず痛さで声を漏らすが当人はそんなことお構いなしだ。唇に当てがられていた手は流れるように顔に掛かった髪を耳に掛けてそっと唇を寄せた。





「詰めが甘いね名前殿」




耳元で囁いた郭嘉殿の顔はきっと楽しそうに微笑んでいるだろう。奸作に長ける軍師そのものだった。騙された。この男はわざと私を煽るように、癇に障るようなことをして顔に傷を負った。これを言いたいがためにこの河原まで来たんだこの人は。だから、だから私はあなたが苦手だというのだ。



打算的な奸作


名前殿が私のことを苦手なのはよく理解していたし知っていた。でも私の姿を見かけるたびにあまりに警戒するものだから可愛いくてついからかいたくなくなってしまってね。私を苦手なら知っていけばいい。私も名前殿の色んな表情を見てみたいからね。
そう告げた郭嘉の顔はやはり柔和に微笑んでいたのだ。


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