無遠慮にベタベタと上半身を触る馬鹿女の手を引き剥がせば、ちぇっ、と随分わざとらしい舌打ちを口先で漏らす。 「それ、そのタトゥーかっこいいね」 左胸に刻まれている刺青に気づいたしレナはそれに指指しにこりと笑う。神田は彼女の言葉を歯切れが悪そうに「別に」と、無表情で呟いた。 ぽたりぽたりと裾から滴る雫が地面に落ちる。じとりと湿った裾に嫌気を起こすが、やはり自室に戻るのが面倒だと思い、神田は再び六幻の刃を滑らせ、イノセンスを発動する。いい加減こんな女に構ってられるか。神田は胸中に愚痴をこぼした。レナを見向きもせず森の奥へと向かおうとした直後。ぐっ、と右腕を引かれる感覚に神田は足を止めた。 「なんだよ」 冷めた目でレナを見下ろすと彼女はするりと神田の右腕から手を離した。動かないでね。そう言って羽織っていた上着を脱ぎ、その場にしゃがみ込んだ。神田は今度は何を始めんのかと怪訝そうにじろじろ見る。 レナは脱いだ上着を神田の汚れた裾にあてがいゴシゴシと拭き始めた。タオルと違って吸収性は良くないが、しないよりは大分マシだ。そんな彼女の行動に神田は何ひとつ表情を変えずに、何の真似だと問えば「裾を乾かし隊でございます」と言いのけた。 一人なのに"隊"かよ。下らない突っ込みを交えて発動していた六幻を鞘に戻し、ため息をついた。 「いい、やめろ。大して変わらねえんだから」 「あだっ」 六幻で奴の頭を叩くと作業を止めて「おー、いていて」と言って馬鹿女は上着を持って立ち上がった。 「お前が勝手にやったことだからな礼は言うつもりはない」 「私が手を滑らせて神田のズボン汚しちゃったんだからね、わかってるよー」 気持ち悪いくらいふやけた面を見せて笑う馬鹿女に内心呆れた。そんな顔してわかってる、なんて言われても説得力も何もないんだよ。へらへらと阿呆な面しやがって。何がおかしい。以前から思っていたがコイツの顔の筋肉は一般人より緩みすぎなんじゃないのか。 「神田が飲む牛乳無駄にしちゃってごめんね」 「それはどうでもいい」 「本当はにぼしと牛乳で迷ったんだ」 「それもどうでもいい」 憂い気味な表情を浮かべながら謝る馬鹿女だが俺は飲むなんて一言も言ってない。そうだ、ひっとことも言ってない。「ごめんよ」なんて言いながら再びベタベタと上半身を触る馬鹿女の額を無理やり後方に押し返す。どさくさに紛れて触ってんじゃねえ。 「でも大丈夫。実はまだあるんだ。どうしても神田にはにぼしも食べて欲しかったから牛乳と混ぜてみました!ハイ!」 「ふざけんな!」 笑顔でコップを俺の眼前に差し出してきやがったコイツの神経を疑った。懲りねえなテメエも!さっきからそれは一体どこから取り出してんだよ! しかもにぼしは無駄に細かく刻まれている。きっとコイツのことだ飲みやすくしてみ「あ、気づいた?にぼしを細かくした方が飲みやすいと思って!」…だろうな!絶対に飲むかこんなもん!牛乳とにぼしが混ざったコップ内はにぼしのせいか少しだけ灰色っぽい色になっている。 「まずそうに見えるけど意外といけるんだよ。さあ短気な神田くんレッツカルシウム摂取!」 「じゃあテメエが飲めよ!」 「私は君ほど怒らないから。ついでにジェリーは独創的且つ独創性に優れた味って褒めてくれたよ。料理長お墨付きだから安心して!」 「マズいんじゃねえか!」 この味音痴が! 馬鹿女から無理やりコップを奪い取り、奴の手の届かない位置、自分の背の足元に乱暴に置いた。 「なるほど。後で飲むのか」 「飲まねえって言ってんだろうが」 神田は地を這うような低い声で言うがレナは形をわざとらしく竦めて「またまた〜」と言って笑った。どこまでもマイペースなお気楽人間だ。またまたじゃねえよ冗談だと思ってんのか。 善かれと思っていることが見事に空回りしているレナだが、本人は空回りしていることに全く気づいていない。牛乳を飲まないのは神田が遠慮しているのだと思い込み、神田が他者より彼女に冷たくして距離を取っていることもきっと気づいていない。ツッケンドンだね〜、なんて笑い飛ばすほど超ポジティブシンキングなのだ。 この超ポジ馬鹿が!はた迷惑なことに少しは気づけよ!神田の怒りも彼女の前では虚しく散るだけである。 「あっ、そうだそうだ!親睦会にはやっぱりクラッカーだと思って持ってきたんだジャーン!」 自らの口で効果音をつける馬鹿女。自前のクラッカーの懐から取り出した。もうどこから出したという突っ込みも面倒くさい。三本のクラッカーのうち一本を取り出し、俺に向けて「引くよ!?引いちゃうよ!?」そう言って紐を力強く引いた。 スカッ 「………」 不発じゃねえか。あんなに意気込んでた割に失敗で終わりかよ。馬鹿女は不発したクラッカーを無言で睨んで残りの二本を左手の指で挟んだ。…テメエ、こっちに向けて同時に撃つ気か。 「よおし、今度こそ!記念すべき第一回親睦会おめでとーイエー!」 ブチぃッ! 「……」 「………」 二度目の不発である。今度は紐が途中で切れて失敗に終わった。たかだかクラッカーにこんなに鳴らすのが下手くそな奴も珍しい。切れた紐部分を恨めしそうに見つめたまま「なぜ…」と呟いて奴は微動だにしない。 妙な沈黙だけが一帯を包み込んだ。一部始終無言で見下ろしていた神田だがこんなことに時間を費やしていることが非常にアホらしくなってきたことに気づく。 「まあ…これ湿気含んだまま五年以上も放置してたやつだから」 「捨てろ」 不発で終わるのも目に見えてんじゃねえか。馬鹿じゃねえの。 「はー、なんかごたごたしてたら喉乾いちゃった。あ、このにぼし牛乳貰うね」 「結局お前が飲むのかよ」 俺の足元に放置していた牛乳とにぼしのドリンクを水でも飲むかのように勢いよく飲み干しやがった。そんなあっさり自分で飲むなら最初からそうしろよ。 悪びれた様子もなく「あっ、全部飲んじゃったメンゴメンゴ!」と言って馬鹿女は空のコップを渡す。俺に渡す意味が全く分からん。いらねえよ。手の甲ではじき返すと「大丈夫また作ってあげるから拗ねないで」なんて意味の分からないことを言い出した。それを飲めなくて怒ってんじゃねえよ! 「そろそろ朝食行かなきゃいけないから!今度は鍛錬しに来るねバイバイ」 「二度と来んな!」 不発したクラッカーと汚れた上着を持って腹立たしいくらいのいい笑顔で踵を返した。 俺の足元には飲み干したばかりのコップが転がっていた。テメエで持って帰れよ馬鹿女が!! こうして神田は任務がないときは毎日欠かさずにやっていた早朝の鍛錬を、レナによって時間をあっさり潰されてしまったのであった。中途半端にしかできなかった鍛錬を止め、彼はすぐさま大浴場へと向かって行った。そのときの神田の表情は額に青筋を浮かべ、まるで般若のような顔つきであったという。 NEXT STORY. ▼ |