はじまりの日
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ふう、と短いため息が聞こえる。目の前の彼はことりとティーカップを受け皿の上に置くと、わたしに言った。
「今日だな」
その表情になぜだか胸を締め付けられた。
あの日から今も変わらず、わたしは彼を想い続けている。そして、彼も同じように彼女を想い続けているのだ。
彼にとって彼女との過去は掛け替えのない日々であり、とても美しいものだったのだろう。美しく彩られたそれらは、時折彼の心に降り注いでは消える。そうして彼を苦しめ続けているのだ。
切なく濁る彼の瞳に、わたしの中で何かが砕けるような感覚に襲われる。
苦しいと、その一言が口に出せたらどれだけ救われるのだろう。しかし、わずかに残る理性がそうしてはいけないとわたしに語りかけるのだった。
いつの間にか空になった食器たち。彼はさっさと立ち上がると、無造作に伝票を掴み、まっすぐレジへと向かっていった。
「わたし、払うよ」
「いいよ。お子様は大人に甘えてな」
そう言っていたずらに笑う彼。最近ようやく彼のこういう一面も見られるようになった。彼女の死から時間がたったため、彼自身も本来の自分を取り戻してきているということなのだろう。時折見つける、わたしの知らない彼に触れるたびに、幼い恋心がまたはしゃぎだしてしまうのだ。
再び帰路に就くわたしたち。
わたしは去年の春、実家から遠く離れたこの地に越してきた。そして琴子と同じ高校へ通っている。
はじめのうちは伯父の家へお世話になるつもりでいた。しかし、まだ彼女の件での傷が癒えていない二人にこれ以上の負担を掛けるわけにはいかないと思い、一人暮らしを計画しているところに、彼と再会した。
彼はわたしを見つけると、一瞬、驚きと期待に満ちた表情を浮かべた。すぐにその表情を微笑みへと変え、わたしに声を掛けてくれた。
思えばあれは、わたしと琴子を見間違えてしまったのだろう。皮肉にも中学三年生へと成長したわたしは、誰もが目を疑ってしまうほど彼女と瓜二つだったのだ。
事情を聞いた彼はわたしの身を快く引き受けてくれた。どうやら彼も高校を卒業してから一人暮らしをはじめたらしかった。それから、わたしと彼の奇妙な共同生活がはじまった。
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