怒り
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思い出の中の君は、いつも綺麗な顔で笑っていた。
五年前、おれには二年間も片思いをしていた相手が居た。同じ高校に通う、柊木琴子という女性だった。
彼女はいつもにこにことしていて、とても人当たりのいい美しい女性だった。
彼女との出会いは中学三年の夏の日のことだった。
オープンスクールがあったその日、友人に誘われ訪れたその学校に彼女は居た。
一目惚れだった。
わずかな望みを掛けて、おれは志望校を自宅近くの進学校から彼女と出会ったその高校へと変更した。
元々志望していた学校とも偏差値にそれほど大きな差は無かったため、受験は難なく乗り越えられた。
そして入学式の朝、真新しい制服に身を包んだ彼女がそこには居た。
運命だと思った。
神様が出会わせてくれたのだと、本気で信じていた。
運良くおれは彼女と同じクラスになることが出来た。あの手この手で彼女との距離を必死で縮め、連絡先も交換して、放課後や休日には遊びに出掛ける仲にまで発展した。
しかし彼女には想い人がいた。彼女の幼馴染の矢坂馬志乃だった。
いつの日かおれは、彼女から矢坂馬についての相談を受けるようになっていた。
苦しい。辛い。憎い。
様々な感情が全身を襲った。それでも彼女が幸せならそれでいいとさえ思っていた。
あの日が訪れるまでは──……。
彼女がいつも人知れず泣いていたことは知っていた。
皮肉にもあいつは、学校中の人気者だった。運動能力に優れ頭も切れる。それに加え容姿も良かった。
【IQ180越えの天才児】
誰もがそう噂をするほどに、非の打ちどころのない完璧な人間だった。
彼女はそんなやつと付き合ってしまったばっかりに、周りから嫉妬の目を向けられ、数々の嫌がらせを受けていた。
あの時彼女を支えられていたら、こんなことにはならなかったのかもしれない。
あんなやつに気を取られて憎悪を募らせる暇があるなら彼女に笑顔の一つでも届けてあげられただろうに、過去のおれは憎しみにばかり囚われて、大事な人生の選択を誤った。
高校二年の夏休みの終わり頃、おれは彼女からの着信で目を覚ました。
受話器の向こうからは、すすり泣く彼女の声が聞こえた。
心臓がドクリと跳ねた。
「どうした?」
控えめに尋ねると、彼女は小さな声で
「捨てられちゃった」
と答えた。
慰めの言葉が見当たらない。
おれは最低だった。彼女の泣き声を耳元で聞きながら、二人の関係が切れたという事実にこの上なく高揚してしまっていたのだ。
「そっか……なら、おれと付き合ってよ」
考えるより先に、言葉にしていた。
しかし彼女は数秒の沈黙の後、できないと呟いて言葉を続けた。
「もう遅いの。ごめんね、バイバイ……」
彼女の言葉の後、受話器から聞こえてきたのは、激しいブレーキ音と、ドンという鈍い音。
直後に通話は切れ、ツー、ツー、という電子音だけが耳元で鳴り響いた。
血の気が引いていった。
おれはすぐさま家を飛び出すと、宛てもなく走り回った。
学校と彼女の自宅の中間地点に片道二車線の交通量の多い道があった。
その通りを抜けた瞬間、おれのすぐ目の前を一台の救急車が横切って行った。
彼女に違いない。
しかし追い掛けることが出来なかった。不安と恐怖で足が竦んでしまい、その場から動くことが出来なかった。
翌々日から新学期が始まった。
始業式。やはり彼女の姿は見当たらない。
教室はいつも通りの日常。彼女は通常の欠席扱いになっており、事故について、彼女の現状について知る者は居なかった。
そしてあの電話から一週間が過ぎ、彼女は帰らぬ人となった。
不慮の事故。担任はクラスメイトへそう告げた。
しかしおれだけは知っている。ただの事故ではないことを。
あいつのせいだ。
あいつのせいで、彼女の人生は絶たれた。
あいつが彼女の未来を奪ったんだ。
気付けばおれの中の憎しみや怒りは、莫大に膨れ上がっていた。
あいつさえ居なければ彼女は幸せになれていたはずなのに。
それからのおれの人生はまるで色を失ったかのように、時間だけが淡々と過ぎてゆく日々の繰り返しだった。
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