適度な距離感を保ち、僕らはいつもの日常を過ごしていた。
今日も僕はまたハル君と図書館へ出掛け、当たり前のように読み聞かせをしている。ここの絵本も大分読んだもんだ。子供向けのものだが侮れない。大人も考えさせられるものや、素直に本の世界に入り込み一喜一憂する彼の姿に、僕ももっぱら絵本の虜になっていた。
すっかり常連となった僕たちに気を使ってか、マリーも度々絵本を仕入れてくれているようだ。新作が入るたび、彼は嬉しそうにそれを手にするものだから、マリーだけじゃなく僕まで嬉しくなる。
今日もまた、新作の絵本を読んでいた。
……ここまでは何時もの日常だったのだが、
「ねぇ、パパってどんな人?」
「えっ?」
突然の問いに僕は文字どおり固まる。
初めて彼の口から飛び出た『パパ』という単語に、何も構えていなかった僕は明らかに戸惑いを覚えていた。
彼の言うどんな人?と言うのが、ハル君の父親――つまり僕のことを聞いているのか、はたまた世間一般の父親のことを聞いているのか。どう答えるか悩んだが、僕は後者の事と捉え言葉を選ぶ事にする。
「うん……色んなパパが居るだろうが……。家族を、ママと子供達を守るために頑張ってる……人かな」
「ふーん。そっか。この本のパパみたいにつよい人なのかな?」
「みんなこんなに強いとは限らないけど、そうだね。気持ちはこの絵本の人物の様に、家族想いで強い人だよ」
僕の返事に納得がいったのかは分からないが、ハルくんは「ふーん」と再び呟き、絵本を閉じた。
そのまま僕の膝から降り、彼は絵本を元の位置に戻す。その一連の動作を眺めながら、内心ヒヤヒヤしていた。
彼にはその家族を守る『パパ』という存在が居ないのだ。気分を悪くしたんじゃないかと気が気でなかった。
しかし、そんな僕の思いとは裏腹に、ハルくんは僕の前でニコリと笑う。
「おじちゃん!おとことおとこの約束!」
いきなりそう言われ、またもや戸惑う自分が情けない。一体どこでそんな言葉覚えたんだ。そして何が約束なんだろうか?
「ママにはないしょだよ!」
ニッと歯を見せて笑うハルくんは僕の手を掴んだ。
* * *
「わあぁぁーー!!」
目の前に広がる青い海に興奮したのか、ハルくんは僕の手を離し海へ駆け寄る。
慌てて僕もあとを追うが、彼は波打ち際で足を止め、そっと海水に手を翳した。
「つめたいー」
「そりゃもう直ぐ冬だから冷たいさ」
そんな僕の言葉は彼に届いてないのか、楽しそうにキャッキャとはしゃぐ。
その子供らしい一面が凄く愛らしい。今まで図書館で大人しく本を読むだけだったから、こんな顔が凄く珍しく思えた。
「海に来たかったのかい?」
波にかき消されないように、なるべく声を張り上げて問えば、ハルくんは頷き僕の元へ駆け寄る。濡れた手をハンカチで拭ってやると、満足げに彼は笑った。
「ママとは来れないから」
そう告げた彼の顔は相変わらず笑顔なのだが、何処か影があるように感じる。
どういう事だろうか?不思議に思い聞いてみれば、彼は僕の手を握りぎゅっと力を込める。
「前にいっかいだけここに来たんだ」
「……ママとかい?」
「うん。このずーっとずーっとむこうにボクのパパがいるって言ってたの」
ドキリと心臓が跳ね上がった。
それは間違いなく僕の事だ。
「ママね、苦しそうだった」
だからここに彼女とくる事は叶わないと彼は言いたいのだろう。
この日常に幸せを感じつつある今、あろう事か僕は彼女を苦しめた事実から目を背けていたのだ。
唐突に自己嫌悪に襲われるが、何とかそれを振り払う。
喉元で引っかかる言葉を飲み込み掛けるが、僕は彼と向き合う事に決めた。
「……パパに会いたいかい?」
言って初めて気づく。
彼と向き合うためじゃない。僕自身と向き合っていると。
ずっと聞きたかった。そして聞きたくなかったこの質問。
少し考え込んだ後、彼は黒い瞳で僕を見上げる。
その表情からは、感情は読み取れない。
「ユウくんもメイちゃんも、パパもママもいっしょにはいないんだ」
「……うん」
「ボクにはママがいつもいてくれる」
そう言って、ハルくんは再び海に視線を移す。
まるで自分に言い聞かせてるかのように言ったその言葉だが、ジンと僕の胸にも染み渡る。
子供とは不思議なものだ。こんな小さな体で、彼は色んな気持ちを抱えているのだから。
もしかしたら、コレは僕のせいなのかもしれない。それでも、こんな立派な『男』へと成長したのは、紛れもなくクレアのお陰だ。
「……でもね、会いたいなぁ」
海を見つめたままそう小さく呟いたハルくん。
その横顔がとても柔らかい表情で、僕は無意識にクレアとダブらせていた。
「おいで、ハルくん」
屈んで手を広げれば、ハルくんは笑顔で駆け寄り僕に抱きつく。
少し冷えた体が、彼の体温により温まるのを感じた。
君は僕が父親だと知ったらどう思うのだろうか?
軽蔑するのか、はたまた喜ぶのか。僕には皆目見当もつかない。
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