「エリィ、悪いがクレアをこのまま一人にはしておけないから、」
「そうですね。分かりました!先生、明日病院の事は私に任せて下さい」
「「えっ!?」」
彼女の発言に驚いたのは僕だけじゃない。クレアもまた、ベッドの上で口をあんぐりと開けて固まっていた。
いや、君が残ってくれ!と慌てて言うが、彼女は笑顔のまま帰宅の支度を始めている。
「おじちゃん、きょう泊まるの!?」
「いや、僕じゃなくて……」
「そうよ。先生と一緒にママの事看てあげてね」
「うん!!」
瞳をキラキラと輝かせた彼をみて、これ以上僕もクレアも何も言えなくなってしまった。
それをまるで見越してたかのようなエリィに、やられた……と頭を抱えたくなる。
「クレアさん、お大事にね。次無理したら今度は私が怒っちゃうんだから」
「……それは勘弁ね。エリィ、本当に今日はありがとう。迷惑かけてごめんなさい」
「いいえ。駆けつけるのは当たり前ですから。クレアさんは私の大事な親友ですもの」
そう言って手を振りエリィはクレアの家を後にした。
残された僕等は気まずい雰囲気の中、黙り込んでしまう。
どうしたものか……。
「おじちゃん!」
困り果てた僕を呼んだのはハル君だった。
白衣の裾をひっぱりながら見上げる彼に、助かったと安堵する自分が情けない。
なんだい?と目線を合わせるように腰を下ろす。
あのね、と恥ずかしそうに言葉を詰まらせるハル君。頭を撫でてやれば、彼は嬉しそうに笑って僕の耳元に手を翳した。
「ママを助けてくれてありがとう」
そっと僕に耳打ちをして、彼はすぐクレアの元へ駆けて行く。
そんな彼の背を眺めながら、僕は何とも言えない感情を抱いていた。
「ありがとう」そのたった一言。医者という職業についてから、何度も言われたこの言葉。それなのに彼が発しただけで、こんなにも特別な気持ちになるなんて。
「僕こそ、ありがとう」
きっと彼等には聞こえていないであろう。
目の前の幸せそうに微笑む親子を眺め、僕は小さく呟いた。
* * *
「ごめんなさい。私の所為で仕事休ませちゃって」
彼女の隣でスヤスヤと眠るハル君を撫でながら、クレアは申し訳無さそうに言葉を零した。「何を言ってるんだい」そう返しながら丁度出来上がった2人分のホットミルクを持って僕はベッド脇にある椅子に腰掛ける。
「これも仕事の内さ」
「……そうだったわね」
そう言って笑う彼女の顔が、心なしか切なく見えた。
何も出てこない言葉の代わりに、僕はホットミルクを差し出す。「ありがとう」そう微笑んで受け取った彼女を見て、ふと昔のことを思い出した。
二人でゆっくりする時、仕事の合間の差し入れ、喧嘩した時だって、僕らは決まってホットミルクを飲んでいた。
ただ牛乳を温めただけの物なのに、彼女が淹れてくれたホットミルクは僕にとって何よりも特別なものだった。
まさかこんなにも切ない思い出になるなんて。
けれど、口にしたホットミルクは海の向こうで一人で飲んだそれより格段に美味しく感じる。なんとも皮肉なものだ。
ふと、クレアの様子を伺ってみる。
彼女もまた、物寂しげな表情で微笑んでカップをじっと見つめていた。
「懐かしいわね」
小さく呟いたクレアの言葉に、ズキリと胸が痛む。
僕はただ頷くことしかできなかった。そうだね、と口にすれば、何もかも遠い遠い思い出となって消えてしまいそうな気がして。もう既に僕らの関係は過去の物なのに。やはり未練たらしいな、と自嘲せざるを得ない。
「あなたの淹れたホットミルクが、凄く好きなの」
聞き間違いかと思い、僕は目を見張る。
まさか、いや、そんな筈はない。必死に否定して、喜びを覚える自分を堕とし込むが、「ほら、やっぱり美味しい」と続いた言葉によって僕の努力は砕け散る。
クレアも同じことを思ってくれてるなんて。
悲しいかな、僕の想いと反して感情は昂ぶるばかりだ。
「……君とこうしてゆっくり話すのは、何だか久しぶりな気がするな」
「ええ。あなたが帰ってきた時も、私逃げちゃったし」
「……いいや、僕も逃げてたんだ」
去り行くクレアを引き止めようと手を伸ばしたが、結局僕はそれ以上動かなかった。
どこかホッとしてたんだ。後ろめたい気持ちと気まずさが耐えられなかった。
今だって本当は逃げたいと思ってる。
彼女と話すと、あの幸せだった日々とのギャップに胸が詰まるのだ。
きっと、彼女もそうだろう。
けれど、クレアは今必死に僕に向き合おうとしてくれてるのだ。
だからここで僕も引くわけにはいかない。
――あの時のように彼女に全てを委ねてはいけない。
「ハル君、すごく良い子に育ったね。大変、だっただろう」
「大変じゃないわ……って言いたいところだけど、本当は凄く大変だった。町のみんなが、とくにエリィが支えてくれたの。だから、私だけじゃないのよ?みんな頑張ってくれた」
「そうか……」
「それにね、ここ最近ハル凄く楽しそうなの。毎週水曜日が待ち遠しいみたいで、まだかな?まだかな?って」
ふふ、と笑う彼女につい顔が熱くなる。
ハル君のことが嬉しいのもあるが、何よりクレアのふとした笑顔がすごく素敵だった。
彼女の笑顔が一番好きだった事を不覚にも忘れていたらしい。
不意打ちをくらい、つい緩みそうになった口元を必死で隠す。
「どうしたの?」と首をかしげるクレアに気にしないでと伝えるのが精一杯だった。
不思議そうな顔をしたまま、クレアはハル君の事を語った。
悪阻が酷かったこと。働きすぎてエリィに怒られた事。難産だった事。初めて抱いた瞬間の事。初めて歩いた事。ママと呼んでくれた事……。
沢山、沢山彼女は僕に教えてくれた。
相槌を打ちながら温かい気持ちになったり、胸が締め付けられたり……けれども、僕の知らないところで自分の子供が成長してる様を伺えて、僕にとって凄く有意義な時間だった。
何度も「申し訳なかった」と言葉が出そうになったが、今彼女がその言葉を望んでない事は百も承知だったから、飲み込むのに必死だった。
証拠に、クレアは楽しそうに、幸せそうに微笑んでいる。
ずっと隣にいたら、僕も同じようにその時々で幸せを分かち合えていたのだろうか。時を戻す事など出来るはずもないのに、その仮の自分が凄く頭をよぎる。
「クレア」
「ん?どうしたの?」
心の中で「ごめん」と呟く。勿論それは彼女に伝わる事はない。
「君に出会えて良かった」
代わりに告げた僕の想い。謝罪を受け止めてもらえないから、感謝だけでも伝えたかった。
きっとクレアにとっては思いがけない僕の言葉だったのだろう。あんなに話し続けていたのが嘘のように、彼女は目を丸くし固まっていた。
謝りたいこともたくさんある。後悔も、辛いことも、きっとそれは彼女もそう。けれども、何故か彼女と出会わなければという後悔は僕の中ではない。クレアと過ごした日々、そして今この瞬間も、すべてが愛おしい。
――勿論、ハル君だってそうだ。
「……おやすみ」
久しぶりに気持ちよく寝れそうだ。立ち上がり頭元の電気を消しながら僕は微笑む。
真っ暗になった部屋の中で僕の耳に届いたのは彼女の戸惑ったような「おやすみなさい」だった。
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