アンダー・ザ・ローズ

scene.3

 まさかこんなことになるとは思っていなかった。こんな風に発展するような話だとも認識していなかったし、軽く見ていたと言うよりは、甘く見ていたのかもしれない。
 カンナとまた付き合うようになってから、度々引っ越しの費用やイゾウに頼んだことによる弁護士費用のことは聞かれていた。それもちゃんと説明をして、納得させたつもりだった。ただそれはおそらくつもりなだけで、彼女からすればちゃんと納得できたわけではなかったようだ。全くその話題を彼女が口にすることがなくなって、納得したのだと思ったことが間違いだった。何度も何度も嫌ってくらい身をもって知っていたはずの彼女の稀に見るしつこさを忘れていた。そうだ、ちゃんと納得するまで絶対に諦めない女だった。
 あの日にまたおれからすれば突然と言っていいくらい突然その話を蒸し返されて、どうにか帰ろうとするのを引き止めて泊めさせたはいいが、朝早くにリビングに様子を見に行けば姿を消していたときはとんでもなく焦った。やっぱり無理にでも寝室に連れて行けば良かったと心底後悔してソファに触れればまだ仄かに体温の残り香があって、時間を確認すればちょうど始発が動く頃だった。几帳面に畳まれた毛布が丁寧にソファに置かれていて、ため息が出る。それからメッセージを入れても電話をかけても全く応答がなく、苛立ちだけが募っていたときに今度はイゾウから連絡が入った。名刺は取り上げたはずなのに何でイゾウの事務所を知っているのかもわからないしその妙な行動力の根源はどこなのかも全く理解できなくて、急いでイゾウの事務所に向かえば来るなやら触るなやら喚き散らして、何とか宥めすかして車に押し込んで彼女の部屋へと送っていった。本当はその握りしめられているスマホを取り上げて登録されているイゾウの連絡先を消してやりたかったし、おれの部屋に連れていって抱き潰してやろうかとも思ったが、意地になっているカンナにそんなことをすればますます意固地になっていくことくらい経験上わかりきっていた。お互い頭を冷やす時間が必要だと思ったから、大人しく言う通りに部屋に送ってやっただけだ。

 だから、それから全く連絡も無視されて、音信不通になるとは想像もしていないことだった。

 カンナにはカンナの生活があるだろうし、ひとりになりたいときだってきっとあるだろうから、なるべく彼女の部屋に連絡もなく来るなんてことはしたくなかったし、今までだってしたことはない。でもあれから半月経って、流石に穏やかに待ってやる気持ちは消え失せていた。久々に片付けてしまっていた加熱式煙草を取り出して嗜む。そうすると腹の奥に湧き上がる衝動が少し落ち着いた。インターフォンを何度か押しても全く反応がない。ため息をついて薄い煙を吐いた。
 船に乗っていたときも同じようなことは多々あったが、何せ海の上のことで、狭いコミュニティだ。避けようにも限界がある。でも現在は違う。スマホやインターネットが普及して勝手が良くなったようで、こうして簡単に姿を消してしまえる。こうされてしまえばもうどうしようもない。もう少しあいつの周りの人間関係を把握しておくべきだったと反省して、最後にもう一度だけインターフォンを押せば隣の部屋のドアが派手な音を立てて勢いよく開いた。

「おい! うるせェ……え? は?」
「……お前エースか?」
「マルコ? マルコ!」

 明らかに寝起きのボサボサの頭で勢いよく怒鳴るその顔は懐かしく、一瞬呼吸を忘れてしまう。それは相手も同じだったようで、おれの顔を見て目を白黒させて刹那硬直していた。余りにも突然だったので、警戒心も忘れて名前を呼んでしまったが、それを合図にするかのようにエースがとても嬉しそうに飛びついてくる。その全く変わらない人懐っこさに笑って、肩に入れていた力をようやく抜くことができた。

 部屋に入れというエースの言葉のままに、訪れたはずの隣の部屋に入ればそこはファミリー仕様のようで、カンナの部屋よりは少し部屋数も多く広かった。コーヒー飲むだろ? と返事をするよりも早く既にドリップコーヒーを淹れ始めていて、リビングに置かれている小さめのソファに座った。
 どうやら今日は休みのようで、昼まで寝ていようとしていたところでカンナの部屋からずっとインターフォンの音が聞こえて起きてしまったらしい。そこそこ壁が薄くて、インターフォンの音は一際よく聞こえるとのことで、悪かったと謝れば、おかげで会えたからいいと機嫌良くエースが言った。
 戸棚の上に飾られている表彰状やトロフィーに、写真もちらほらと置かれていて平和な満ち足りた日常を感じられた。シンプルなマグカップに注がれたコーヒーをテーブルの上に置かれて、礼を言えばエースが歯を見せて笑う。

「お前いつ越してきた?」
「もう半年くらい前か? オヤジに物件紹介されてよ。ルフィと暮らしてんだよ」

 そんなにも前からカンナの隣に暮らしていたとは知らなかった。でも、そう言えばカンナが何度か隣に家族が引っ越してきたことや、上手く関係を築けていること、とても良い人たちでとても面白いと言っていたことを思い出した。家族というものだから、子連れの夫婦や新婚とか、そういうものを勝手に想像していたが違っていたようだ。多分自己紹介のときに、エースもルフィも家族とか、もしくは兄弟とか、そんな具合に言ったんだろう。
 いつの間にかこんなにも以前の仲間に囲まれていて、もうそろそろ過去の縁と接触させないようにすることは諦めたほうが良いかもしれないと思いながら「いつ思い出した?」とエースに聞けば、まるで遠い昔を思い起こすように「いつだったかな」と少し考え込んだ。それでも明確に時期は覚えていないようで、やがて考えるのをやめた。

「記憶はルフィと会ったときに戻った。ルフィは覚えてねェけどな?」

 そうなら、それなりに前には思い出していたようだった。きっとここを紹介したというオヤジも知っているはずで、けれど無理に再会させる気がないというところが何ともあの人らしいところだ。縁があれば会えるし、なければ会えない。言ってしまえば、ただそれだけのことだ。だから、会えたことがとても嬉しい。エースだって同じはずだった。

「カンナも戻ってねェだろ?」
「…そうだな」
「そう警戒すんなよ。余計なこと言ってねェし言わねェよ」

 その言葉に反射的に身構えてしまって、呆れたようにエースが肩を落とした。悪い、と呟いてコーヒーを飲む。エースやルフィがカンナと良好な関係を築いていることは見ていて明らかで、それはきっとエースが突っ走らずにきちんと弁えて話してくれていたからだ。昔のことは昔のことで、今のことは今のことだと分けている。
 どうやら今は車屋の営業をしているようだった。仕事はそこそこ面白いこと、今はルフィがスポーツ推薦で大学に通っていて、その学費を一部エースが支払っていること、今はロロノアたちと旅行に行っていることを楽しく話すエースを見ていると、ささくれた気持ちが柔らかくなる。エースには昔から人の心を丸くする空気があった。
 笑うおれをエースが下から見上げて、「やっぱなあ」とテーブルに頬杖をついて言う。

「やっぱり付き合ってるやつってマルコだったんだな」
「聞いてたのかよい」
「ちゃんと確かめてねェけど、そうなんじゃねェかなーって思ってた」

 あいつわかりやすいからなあ、と嬉しそうに呟いた。船にいたときからカンナとエースは仲が良かった。最初からだったように思う。歳が近いことも手伝って、まだ船に乗ったばかりのエースの近くをうろうろとして鬱陶しがられても全然めげずに構いまくっていた。やがて一緒に遊んだりそこら辺で寝たりするようになって、おれと揉めたり喧嘩したりするとエースが話を聞いたり慰めたりしていたことを知っている。歯に布を着せないカンナの直接的な物言いは、むしろエースにとって有り難かったのかもしれない。余計な同情をエースは嫌っていたからだ。
 押し黙ったおれをエースが窺うように、どこか心配するように覗き込む。誤魔化すようにもう冷めてしまったコーヒーを飲み干せば、喉を通る苦さがじわりと口内を乾かした。

「カンナに会いに来たのか? 最近帰ってきてねェと思うけどな」
「いつからだ?」
「さあなあ…二週間くらいか? てっきりマルコのとこに行ってんだと思ってたんだけどな」

 本当にどこへ行ったのかまるでわからない。別に一人前の大人の女なのだから、そこまで心配するようなことではないのかもしれないが、何せいつもどこへ行っても何かしらのトラブルに巻き込まれるし、誰かに絡まれている。本人に原因があるわけではないし、あいつはあいつでちゃんと素っ気なく断ろうとしているし反応しようともしていないのに、何故か辺な輩を引き寄せがちだった。再会したときもそうだったし、それ以降だって何度そういう輩を振り払ったり追っ払ったかわからない。だから、普通に拗ねて怒って音信不通になってるだけだったらまだいいが、変なトラブルに巻き込まれているのではないかと、そっちの心配の面が大きかった。
 ふっとエースがテーブルに突っ伏して肩を揺らしている。この間からイゾウもこいつも他人事だと思いやがって、とため息をついた。

「何だよ、相変わらず喧嘩か?」
「そんな大層なもんじゃねェよい」
「お前ら本当に飽きねェなあ」
「そりゃあいつに言ってくれ」
「今でも振り回されてんな?」

 エースが徐にスマホを取り出して素早く指先を動かす。それを見ると、こいつもこの時代の若い男なんだと痛感してしまった。空になったお互いのマグカップをエースが持ってシンクで洗っている間に、テーブルに置かれたエースのスマホが震えた。
 簡単に濡れた手を拭って戻ってきたエースが腕まくりをしたまま自身のスマホを操作して、ふと笑った。

「ナミのとこにいるんだってよ。マルコの連絡先教えてくれよ。ナミに連絡するように言っとくから」

 おれから連絡してもいいけど、普段全然連絡なんてしないから逆に怪しまれそうだと言う。番号を教えるとすぐに入れているメッセージアプリに通知が届いて、エースから次々に画像が送られてきた。どうやらナミから届いた画像を転送しているようだった。そこには膝を抱えて座っているカンナがスマホを持って何かを話している様子から、自分を撮っているナミに気づいて驚いたように身を乗り上げている様子が写されていた。そう言えば写真は苦手だと言っていた。とりあえずトラブルに巻き込まれているのではないかという、懸念していたようなことにはなっていないようで胸を撫で下ろす。しかしそうすると、また腹の奥から泥ついた怒りが込み上げてくるものだからどうしようもない。
 ため息をついて立ち上がると、エースも習って腰を上げた。

「本当は思い出してんじゃねェかって思うときがあんだよなあ」
「本質的なとこは変わんねェせいだろ」
「まあ思い出してても忘れてても何も変わんねェよ。今も友だちになれたしな?」

 呑気なエースの声に喉元を塞ぐ衝動が堰き止められた。靴を履いて外に出れば、どこか名残惜しそうにするエースに後ろ髪を引かれる。こんなことなら、もうちょっとちゃんと探してやればよかったかもしれない。そうは言っても結局は結果論で、どうにもなりはしない。今出会えたのだから良しとする他ない。
 また連絡すると言えば、エースは安心したように薄く息を吐いた。

「さっさと仲直りしろよ」
「だからそれはあいつに言ってくれよい」

 じゃあな、とマンションを後にして停めていた車に乗り込んだ。加熱式煙草を取り出して一呼吸置いてから深く吸えばゆるい煙が体を満たしていく。また追加でエースから送られてくる画像を開けば、クッションを抱えて顔を隠そうとしているカンナがいた。どうしようもなく腹が立つのに、どうしようもなく会いたいと思っている。気になることや納得できないことがあるととんでもなくしつこく聞いてくるし問い詰めてくるくせに、急にふといなくなって逃げるような面倒な女のはずなのに、目が離せなくて気になって仕方がなくて、いっそ閉じ込めてしまいたいと思ってしまう。ブレーキを踏み込んでエンジンボタンを押すと、機械的な音を立てて車が揺れた。
 またメッセージアプリから通知音が鳴って、ナミから連絡が入った。さあどうしてやろうかと思いながら、アクセルを緩く踏み込んだ。

(2024.02.21)

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