アンダー・ザ・ローズ

scene.1

 マルコの部屋の大きなソファで、マルコの膝の間に座って時計が秒針を刻む音を聞いている。大きなテレビもあるけれど、お互い朝に少しニュースを見る為に電源を入れることはあるだけで、夜にテレビを見る習慣がなくいつも画面は暗いままだった。それぞれお風呂に入って、簡単なルームウェアに着替えていた。何だかんだと週の半分はマルコの部屋に泊まっている。激務なマルコに無理をさせても嫌だしどこか遠慮する気持ちで自分の部屋に帰っていたけれど、私が淡白だと思い込んでいたマルコは予想に反して情熱的で、私を子ども扱いもしないし、とても穏やかでやさしいけれど私に対して遠慮したり躊躇ったりすることもなかった。関係が一歩進んでしまえば躊躇する私の手を引いてくれる。マルコの部屋に私のものが少しずつ増えていっている痕跡を見ると、恥ずかしいような嬉しいような、むずがゆい感覚がした。
 乾かしたばかりの髪は押さえつけようもないくらい跳ねていて私はあまり自分の髪が好きじゃないのだけれど、ナミが褒めてくれるから少しだけ好きになった。昔からちっともまとまらなくて雨の日なんか最悪だったけれど、ナミが可愛いって言ってくれてとても嬉しかったことをずっと覚えている。マルコも手持ち無沙汰になれば私の髪に触れていることが多かった。今だってそうだ。膝の間に座って、マルコの大きな腕がお腹に回っている。私よりも高い体温を背中にずっと感じていてひどく安心してしまう。くるくる跳ねている私の髪の毛先を指先で遊んでいるマルコに笑えば、気付いたマルコが唇を頬に寄せてきた。

「何だ、機嫌がいいな?」
「ボーナスもらっちゃったー」
「へえ…この不景気にちゃんとしてんな」

 会社から送られてきた電子明細書を見せると、感心したようにマルコが呟いた。今の会社はノルマだってあるし多分ブラックだししんどいときもあるけれど、給料だけは良かった。給料を良くしないとただでさえ人手が足りないのに、すぐ辞めてしまうからだろうなあと思う。でも頑張ったら頑張った分、こうして何かの形で反映されるのはとても嬉しかった。今期は今までで一番がんばったからその通り今までで一番大きな額をもらえて、何度でもいつもはそこまで見ない明細書を確認してしまう。お金は大切だけど言ってもそこまで重要視しているわけではなかったけれど、今回だけは別だった。
 マルコが笑って私の首筋に顔を埋めた。大きな手のひらが薄っぺらいルームウェアの中に入ってきて、ゆるゆるとお腹を撫でてくる。

「普段何に使ってんだ?」
「貯金してる」
「堅実だな意外に」
「でも今回は使い道決めてるの」

 体を捻ってマルコに向き合えば、手の動きを中断されて少し驚いたように目を見開かれた。

「あのときいくらかかったの?」
「は?」
「ほら、弁護士の先生に頼んだときとか、引越しの費用とか。あの部屋の契約の費用は調べたから知ってるんだけどね?」

 すっとマルコの温度が下がるのがわかった。この話は今まで何度も、それこそ呆れるくらいしていることだった。どうしたって教えてくれないから自分で調べようとして、調べられたのは今の部屋の費用くらいで、後はどうしてもわからない。引越しの業者はわかっているから電話で問い合わせをしてみたこともあったけれど、マルコが既に手を回しているのか会社の規定か、かかった費用は教えられないと言われてしまった。弁護士の先生に頼んだ費用なんて調べてもピンキリで、それこそわからない。
 あのときは本当にあっという間で、気がつけば全部手配が終わっていて、そんなこと気にする余裕も隙もなかった。でも冷静になって考えればそれらは私が出すべきものだった。なのにマルコはどれだけ聞いたって何も答えてくれなかった。もしかしてマルコは私にお金がないって思っているんだろうかと思って、確かにめちゃくちゃあるわけではないけれどないわけでもない。稼げるところを見せれば何か言ってくれるのではないかと期待して、マルコのシャツを掴んで体を寄せてみる。

「いくらだったの? 返そうと思って」
「いらねェよい」
「いらなくないでしょ? 私にかかったお金だよ?」
「だからありゃ不可抗力だったろ。何度もそう言ってんじゃねェか」

 マルコが深いため息をついた。シャツを掴む私の手を解いて立ち上がってしまう。視線だけ追って言葉を重ねるけれど、取り付く島もなかった。お酒が入っていたロックグラスを持ってキッチンに歩いて行って、そのままそこに飲料水を注いでいる。今日はもう飲むつもりがないようだった。マルコは私を見ない。マルコからすれば、何度も何度も同じことを聞かれて断っても諦めない私が鬱陶しいのかもしれないけれど、私にだって納得できないことがあった。嫌なものは嫌だったし、それをそのままにして過ごせない。

「…この為にがんばったんだよ」
「自分の為に使え」
「だから払うって言ってんじゃん」

 仕事は楽しいし好きだ。服も大好きだし、流行りやトレンドを考えてコーディネートするのも大好きで、それで誰かが喜んでくれるととても嬉しい。来てくれた人とおしゃべりするのも、仲良くなるのも好きだし嬉しいし、そうやって関係が築かれていくのが楽しいから今の仕事を続けていられるんだろうと思う。でも、だからってそこまで必死になったこともなかった。普通にしてれば普通に給料はもらえるし、そこまで過度に稼がなくてもそのお金で生活していけるし、そこまで物欲もないから買い物してお金がなくなるなんてこともない。
 うんざりしたようにするマルコにお腹の奥からふつふつと、普段余り感じない衝動が湧き上がる。何だろうこれは。悲しいのとは少しちがう。悲しいわけじゃない。
 水を飲みながらまたマルコが私に近寄ってくる。何で私に向き合ってくれないんだろう。あからさまに誤魔化そうとしている。

「何回聞かれようが言わねェしいらねェ」
「……何で」
「何でって何回も説明してんだろ? もうこの話は終わりだ」

 グラスが音を立ててローテーブルに置かれて、低めの音が響いた。そのまま私の肩を押してソファに倒される。大きな体が覆い被さってきて、寄せられる唇に反射的に蓋をした。
 そうだ、これは怒りだ。今、私はすごく怒っている。今まで余り感じたことのない怒りが溢れている。強い衝動に少し涙腺が緩むのを感じたけれど、ぐっと喉元に力を入れて我慢する。泣いたら思う壺だというわけのわからないことを考えた。この体を駆け上がる怒りをどうすれば処理できるか全くわからなくて、それなのに制御できる気もしなかった。

「しない」
「あ?」
「マルコがちゃんと言うまでキスもしないしセックスもしない!」

 そんなに大きな声を出すつもりもなかったのに、思ったよりもずっと大きな声が出た。私も自分の声の強さに驚いたけれど、マルコはもっと驚いたみたいで目を見開いて硬直していたので、その隙にソファの傍に置いてある自分の鞄を引っ掴んでマルコの大きな体躯の下から抜け出した。自分が今どんな格好をしたままだとかそもそも今何時だとか、そんなことを考えることもできなくて、とにかくこの部屋から出て行かなければいけないという衝動に身を任せていた。
 焦ったように引き止めるマルコの声を背中で聞いたけれど、そんなことで止まるわけがない。そういえば私は勉強は全くできなかったけれど、足は速かった。あっという間に玄関のドアに辿り着いて大きな重い扉を押して開けたけれど、僅かに外の空気を吸えただけですぐに私に追いついたマルコの大きな手のひらがドアの取手を握る私の手に重なって閉められてしまった。「カンナ」と咎めるように名前を呼ばれる。何で私が怒られなくちゃいけないのかまるでわからなくて、頭が沸騰しそうだった。

「何考えてんだよい。お前今どんな格好してると思ってんだ」
「じゃあ着替えて帰る」
「わかった、わかったから今日は泊まっていけ」
「帰るって言ってんじゃん!」
「酒飲んじまったから送ってやれねェんだよい。こんな時間に危ねェだろ?」
「タクシー使うからいい」

 押し問答をしている間にマルコが玄関の鍵を再び閉めて、チェーンまでかけてしまった。私を突き動かす怒りはどんどん大きくなっていって静まる気配がない。生まれて初めて感じるどうしようもない、抑えることができない強い負の衝動だった。マルコと出会って、知らないことばかり知っていく。だからこんな私ですらどうしようもない衝動をどうにかできるのはマルコだけなのに。
 腹が立ってどうしようもなくて、このままここで着替えてやろうと薄っぺらいルームウェアを脱ごうとすると、「やめろ」とすぐに腕を掴まれて堰き止められてしまった。そのまま引き寄せられて広い胸の中に抱き竦められてしまう。こんなことで誤魔化される女だと思われたくなくて、そもそも誤魔化せると思ってるのかもしれないマルコにもまた怒りが込み上げてわけがわからなくなってくる。嫌だと腕で広い胸を押して暴れるのに、より強い力で抱きしめられてどうしようもなくなってしまった。

「何もしねェよい。約束するから、今日はここにいろ」

 まるで懇願するようなマルコの言葉の温度に少し驚いて、体中に入っていた力が緩んだ。大人しくなった私に安心したように、閉じ込めるように私の体に回っていた力も緩んでいく。流されたとも思われたくなくて顔を上げない私の頭をいつも通りにマルコはやさしく撫でてふいに泣きそうになってしまったけれど、絶対に絶対に今はマルコの前で泣きたくなくて、ますます顔を上げられなくなった。手を引かれてまたリビングに戻されて、そのときに私がまだ裸足のままだったことにようやく気付いた。
 広いソファの端で猫のように丸くなって顔を伏せていると、お前はベッドで寝ろだとか風邪を引くだとか色々声をかけられていたのはわかっていたけど、返事もしたくなくて全く反応をせずに押し黙り続けていれば、ようやくマルコが諦めたように寝室から毛布を持ってきて体を覆うように被せてくれた。こんな風にしていたらマルコに幻滅されてしまうんじゃないかとかガキだなと思われてフラれてしまうんじゃないかとか考えて俄かに焦る気持ちが生まれたけれど、それでも顔を上げたくなかった。やがてあれほど大きかった怒りがゆっくりと大きな悲しみに変わって行って、マルコがリビングにいないことを確認した瞬間に我慢していた涙が溢れた。ぐっと歯を食いしばったら誤って唇の中を噛み締めてしまって、鉄の味が口内に広がる。
 マルコといると知らないことばかり知っていく。私にはどうすることもできないことばかりだ。マルコにしかどうにもできない。だからどうにかして欲しいのに、今は絶対に頼りたくなかった。ぐるぐると怒りやら悲しみやらでわけがわからなくて気持ち悪くなってきて水を飲みたいと思ったけれど動くのも億劫で、そうこうしていると大きな眠気が突然私を襲う。抗うことなく瞼を閉じれば、そのまま夢の中に攫われてしまった。

(2024.02.20)

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