アンダー・ザ・ローズ

壊れてしまった色を集めて

 記憶を取り戻したのは突然のことだった。オヤジに今世で初めて会ったとき、あの突き上がるような衝動を今でもはっきりと思い起こすことができる。イゾウやジョズ、ビスタも当たり前のように、腐れ縁と言って良いくらい思えば気がつけば近くにいた。とは言っても、前世の記憶を取り戻したとは言え何か日常で変わるかと言えばそういうわけではない。今世では今世の通りに生活をするだけだ。朝起きて出勤して、仕事をする。医師として病院に勤めているので日常的に残業はするが、基本的にはその繰り返しだった。
 記憶を取り戻している者もいれば、そうじゃない者もいる。その区別は判然としないが、だからと言って何がどうと言うわけではなかった。
 そんな日常を送っていた時に、彼女を見つけた。前世とあり得ないくらい同じだったから思わず目を疑った。相変わらず男運が悪くて、相変わらず無鉄砲で何も考えてなくて、相変わらず不遇だった。揉めていたたちの悪そうな男を追い払って彼女を立たせれば唇の端が切れているのに、全く気にすることもなくおれを真っ直ぐに見つめる瞳の色も無垢な眼差しも、目の奥に潜む熱もすべて何も変わらないものだから気持ちが逸っていく。

 救いは、彼女が何も覚えていないことだった。おれに対して何か思うところはあったようだったけれど、だからと言って何かを思い出すこともなかったので、心底安堵した。
 どうしようもない男と切れるために、勤めている病院に連れて行って診断書を書いてから弁護士をしているイゾウに連絡をした。警察に手を回して接近禁止命令を出してもらって、ほぼ同棲していた彼女名義の部屋を解約して新しい部屋を与えた。調べてみるとどうやら生活費のすべてを彼女が賄っていたようで、本当にどこまでも不遇な運命を辿っているようだった。
 それでもおれが近くにいればいるほど彼女が前世を思い出す確率が上がるかもしれない。それだけは避けたくて、絶対に思い出して欲しくなくて、すべてが終わった後彼女の前から消えることに決めていた。

 舐めていたとしか言いようがない。そうだ、彼女は馬鹿だった。馬鹿でどうしようもなく真っ直ぐで、極めつけにしつこかった。
 仕事が終わったり飲み会や会食が終わったら、ひょっこり彼女が現れた。それが週に何度も繰り返されて、何ヶ月も続くのだから呆れを通り越して感心してしまう。どれだけ冷たくあしらってもめげることがなかった。

 隣で眠る彼女の健やかな寝顔と規則正しい寝息が聞こえる。首筋から鎖骨にかけて散らばる赤い鬱血を見て自嘲気味に笑った。欲を持って触れれば絶対に歯止めが効かなくなるということくらいわかっていた。でももう限界だった。自分を抑制するのも、彼女を説き伏せて押さえ付けるのも、限界だった。

 おれを好きだという彼女の言葉を信じていなかったわけじゃない。でも所詮は前世の残り香に引っ張られているだけだと思っていた。時間が流れて顔を合わせなくなればいずれはなくなる仄かな残り香。そのはずで、そうでなければならない。頬に触れた瞬間脳に鮮明にリフレインする血に濡れた彼女の感覚がリアルに思い起こされて指先が震えた。それをまるで慰めるように、隠すように覆われた小さな手のひらが想いの先を伝えてくれる。

(私はマルコが好きだって言ってるじゃん! 海なんか怖くない!)

 無くしているはずの記憶が何度だって脳髄を焦がす。どれほど冷たくあしらっても、どれほどつれない反応を繰り返しても、彼女は真っ直ぐにおれに向き合って追いかけてきた。能力者でもない癖にカナヅチで、海が怖いなら連れて行けないと言い続けていると、走って船の端に立ってそう叫んだ。

(マルコと離れる方がずっとずっと怖いの!)

 そうして躊躇いなく泳げないとわかっているはずなのに、海に飛び込んだ彼女を追いかけるように己が能力者だということも忘れておれも海の中に沈んだあの感覚を、どうしたって忘れることができなかった。今世でも同じようなことを言われたことに驚いて、おれは今誰と話しているのかと迷子になる。
 あのときに海に飛び込んだあいつは、目の前で眠る彼女じゃない。あいつは死んだ。あの戦争の中で、おれを庇って血を流して死んだはずだ。おれが船に乗せなければ死ななかった。別の男と一緒になって、子どもでも作って幸せに暮らして生きていられただろう。例えばの話をしても仕方がないことはわかっているのに、考えずにはいられなかった。だから、記憶を取り戻した時に彼女が近くにいないことにどこかで安堵していた。きっと幸せに暮らしていると思っていたかったからだ。

 なのに何で、こいつは今世でも血を流しているのか。こんな平和で戦争もない、穏やかな世界に生まれて、何で幸せそうじゃないのか。底抜けに明るくて前向きで、目の前しか見ていなくて己の感情に素直で、真っ直ぐに未来しか視えていない。だから、おれのいないところで勝手に幸せになっていて欲しかった。
 目尻に涙の痕が残っていて、もう手放せないぬくもりに引き寄せられるように口付けを落とせば瞼がぴくりと震えた。薄らと開く瞳がまだ半分眠りの中に沈んでいる。前髪を掻き分けて額にも口付ければ、高い体温が背に回って甘えるように体全部で縋ってくる。

「体大丈夫か?」
「うん…」
「どうした?」

 胸の中でくすくすと人の気も知らずに笑って、もうちょっと寝てたかった、とぼやいている。

「夢を見たよ」
「夢?」
「そう、船で…海を冒険する夢」

 どくんと心臓が鳴った。脈拍が一気に上がって、鼓膜を容赦なく叩く。
 お願いだから、お前は思い出すな。瞼の裏に繰り返しフラッシュバックする血濡れた彼女の姿が目の前の彼女に重なる。こいつはまだ生きていて、あいつは死んだ。違う、以前とは違うのだと頭ではわかっているのに、感情が、この体が言うことを聞かない。
 彼女の名前を呼んで、やめろと言う前にまだ半分夢の中にいるような呑気な声が、おれを落ち着かせるように空気を揺らした。

「マルコも一緒で、皆一緒で…楽しかったなあ」

 まるで懐かしむように、それは確かに過去の憧憬だった。思わずいつの間にか詰めていた息を吐いて、胸の中で夢でした冒険の日々を曖昧に話す彼女の声を聞きながら、ゆっくりと鼓動が落ち着いてくるのがわかる。
 おれを好きだと言い続けていた彼女を混同して、信じ切れなかったのはおれだった。おれたちは確かにあの世界に生きて、あの世界に死んだけれど、おれたちは確かに今の世界に生まれて、今の世界に今を生きている。だから、あのとき死んだ彼女を投影するのではなくて、今を生きている目の前の彼女に向き合うべきだった。だって彼女は今しか見ていない。最初からそうだったはずだ。
 深く息を吐けば、押し黙っていたおれに今更気付いたように彼女が顔を覗き込んで、背に回っていた手で頬に触れられる。

「マルコ? どうしたの?」
「…何でもねェよい」
「何でもなくないよ、」

 どこか心配そうにしている彼女の唇を己のそれで塞いでしまえば、驚いたように大きな瞳が一瞬見開かれるけれど、すぐにゆっくりと瞑られる。きっと彼女といるとずっと苦しい。でも一緒にいない方が無理だ。どっちにしても苦しいなら、一緒に生きて行く方がいい。決めてしまえば簡単なことだった。簡単で単純で、明快なことだった。唇を離して笑えば、彼女が不思議そうな顔をして名前を呼んだ。
 彼女の髪をすくように撫でると、気持ちよさそうに目を細める。この猫のような反応がとても好ましかったことを覚えていた。全身で好きだと伝えてくる彼女が堪らなく大切で、だから傍に置いた。それだけだった。理由はいつだって単純で、難しくしているのは己の言い訳だけだ。
 腰に腕を回して引き寄せれば、抵抗せずに再び胸の中におさまった。きつく華奢な体を抱いて、肩口に顔を埋めると清潔な石鹸の香りがした。「マルコ?」とさも大切そうに名前を呼ばれる。もう手放せないあたたかい温もりが肌に馴染む。本当はずっとこうしたかった。

「お前が好きだ」

 以前も今も、臆病なのはおれで、手を引くのは彼女だった。だからもう観念して、引かれるままに前を向くしかない。
 彼女が胸の中でおかしそうに笑った。

「知ってるよ。だからずっとそう言ってるじゃん」
「…敵わねェなあ」
「私もマルコがすごく好きなの。知ってる?」

 本当はずっと寂しかった。ずっと何かが足りなくて、何かを探し続けていた。それは記憶を取り戻すよりもずっと前からそうだった。誰といても誰と付き合っても、誰を抱いてもそうだった。ずっとお前を探していたと言えば信じるだろうか。
 お前がおれを好きなことくらい、お前が思うよりもずっと前から知っていると、返事の代わりに薄い唇を奪った。

(2024.02.17)

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