アンダー・ザ・ローズ

待ち続けた春の残骸

 たちの悪い男に引っかかってしまって、その別れ際に居合わせて助けてもらったのが知り合ったきっかけだった。相手を傷つけることなくあっという間に追い払ってしまったその姿を見て、恋に落ちるなという方が無理難題に思えるほど強烈に惹きつけられたことをまるで昨日のことのように鮮明に覚えている。路地裏に転がっていた私の腕を乱暴ではないけれど少し強引な力で掴んで引き起こして、どこか焦ったような表情をしていた。揉み合った際に頬を打たれたせいで切れた唇の端の痛みさえも忘れてしまうくらい、強烈な引力だった。
 それから先は、怒涛のような日々だった。普段ならこんなことで行かないのに、無理やり病院に連れて行かれて診断書を書いてもらって、頭のいい大人を紹介してもらって半同棲していた部屋を解約して新しい部屋を契約して、知らぬ間に引越しまで完了していた。ここまで私は一銭も払っていなくて、流石に申し訳ない気持ちでマルコにいくらかかったか聞いてみたけれど、答えてくれることはなかった。「出世払いだな」と穏やかに笑って頭を掻き混ぜるように撫でるだけで、それが妙に心地よくてたまらない。何でこんなにもマルコが笑うと嬉しいんだろう? だから、すべてが終わった後、「元気でな」とまるでお別れみたいなことを言ったときは心底動揺してしまった。何で私は、これから先もマルコとずっと一緒にいられると思い込んでいたんだろうか。パズルのピースがピッタリ合わさるみたいに、信じて疑わなかった。どうして?
 だから、このまま本当にお別れな雰囲気を出すマルコに私はとんでもなく焦って、焦った結果、マルコにどう思われようが付き纏いまくることに決めたのだった。

「またお前かよい」
「マルコ、仕事終わった?」
「終わっても終わってなくてもお前には関係ねェだろ」

 お世話をしてくれたときはとんでもなくやさしくしてくれたのに、マルコのあとを付けて行動を割り出して、仕事帰りとかに偶然を装うこともせずに待ち伏せし始めてからマルコの反応が塩対応になってしまった。追い払うように手を振られても全然めげることなく隣に走って行くとため息をつかれる。でも本当に嫌がってないことくらい馬鹿で学のない私にだってわかる。だって本当は歩くのが早いのに私に合わせてゆっくり歩くし、私に絶対に車道側を歩かせないし、荷物だって持って家まで送ってくれる。うんざりはしてるのかもしれないけれど、嫌がってはいないはずだった。
 それでも、今まで生きてきてこんなに男に気のない風にされたこともなくて、私は頭は馬鹿だったけれど顔はそこまで悪くなかったから、男は大概ちやほやしてくれたわけで、ここまで興味ないような素振りをされるとどうしていいかわからなくなってくる。わからないから、マルコの腕を引いて向こうの通りにあるラブホテルを指差して、「あそこに入らない?」と聞いてみたけれど、「何言ってんだ」と心底呆れたような顔をされてしまった。体の関係さえ持ってしまえばそのままなし崩しに一緒にいてくれるかもしれないのになあと肩を落とすと、マルコが私の鞄を攫って腕を引いた。
 マルコは私がどれだけ好きだって言っても、言葉を知らない私が言葉を尽くしたところで返事をしてくれなかった。どこか苦しそうな顔で眉を顰めるだけで、応えてくれない。でも何故か、どうしてかわからないけれど、不安には感じなかった。根拠のない確信がずっと胸の中にあったからだ。マルコだって私のこと好きでしょう? 絶対、絶対にそうでしょう?

「私はマルコのこと好きなんだけど、マルコはどう?」
「………」
「別に都合のいい女でもいいよ。好きなときに呼び出してヤるとか、そんなのでも全然いいんだけど」
「………」
「ねえ、聞いてる?」

 きらきら、夜の街のネオンが眩しい。本当は都合がいい女になるなんて嫌だなと、言ってしまった言葉を後悔したけれど、吐いた言葉は取り消せない。本当は一番がいい。マルコの一番が良かった。マルコの唯一になりたい。はあ、とマルコが夜の騒がしい街の騒めきの中でも聞こえるくらい深いため息をついて、ようやく足を止めた。高い背が私に向き直ると、ネオンが逆光になって表情がよくわからなかったけれど、深く眉を顰めていることだけは窺い知れた。

「吊り橋効果って知ってるか?」
「私馬鹿だから難しいことわかんないよ」
「帰ったら調べてみろ。お前がおれに拘んのはそういうことだよい」

 マルコに付き纏い始めて何ヶ月経ったんだろう。毎日とまではいかないけれど、週に3日か4日は好きだ好きだと言い続けて何ヶ月経ったのか。今まで、一度もマルコはそれに返事をしてくれたことなんてなかったが、否定したことも一度もなかった。吊り橋効果っていうのがどういうことなのか私にはわからないけれど、少なくとも今の私にとって良い意味であるわけがないことは理解できる。
 ひどく不愉快でマルコの手にある鞄を勢いよく奪えば、それこそマルコのほうが驚いたように目を見張った。何でマルコは、私のことが好きなのに私のことを信じてくれないのだろう。私のことが好きな癖に、好きじゃないような態度を取るのか、まるでわからない。
 だって、目がそう言ってる。マルコの目が、目の奥の欲望が、私を欲しいって言ってる。自分でもどうかしてると思う。側から見ればストーカーって言われても仕方がない。でも、どうしても、そうだって思ってしまう。マルコと出会ってからずっと、ずうっとこうだ。根拠のない確信がずっと胸の中にある。何で? どうして? でも私はマルコと一緒にいないといけないし、そうするべきだ。その衝動が私を突き動かし続けていた。
 歩いてきた道を振り返って、電信柱にもたれて立っているいかにも今夜の相手を探してそうな男を指差せば、マルコが不思議そうに視線を指先へと這わせた。

「じゃあマルコは、私があの男とホテルに入ってもかまわないんだね」
「そういうことじゃねェだろ」
「そういうことだよ」
「…お前な、」
「私はマルコが好きだって言ってるのに!」

 我ながらめちゃくちゃなことを言っていると思った。流石のマルコでも怒るかもしれないと思ってマルコに視線を戻せば、多分今まで見たことがないくらい驚いたような、呆気にとられた顔をしていた。逆光でちゃんとわからなかったけれど、言葉をなくしていたように思った。
 返事をしてくれないし言葉も返してくれないし、やるせない気持ちでいっぱいになって、そもそも私はマルコを困らせたいわけじゃないはずなのにどうしてこんなことになってるんだろうと虚しさまで込み上がってきて、男に殴られたときもマルコに塩対応され続けても込み上げてこなかった涙が、今になって急激に涙腺を揺らした。「もういい」と一言呟いてマルコと歩いた道を戻って行くと、先ほど引き合いに出しただけの男に声をかけられる。あんたに好かれたいわけじゃないし、あんたに都合の良い女扱いされたいわけじゃないのにと思ったけれど、胸の奥にぽっかり空いてる穴を埋める方法が男と寝る以外には思いつかなくて、本当に私はなんて馬鹿なんだろうと痛感した。
 そういえばマルコと出会う前の私はそんな女だったなあと、数ヶ月前のことなのに遠い昔のようだった。誰と付き合っても誰と寝てもしっくりこなくて、側から見れば手当たり次第って思われても仕方のないことをしていたのかもしれない。でもマルコに出会って、付き合っても寝てもないのに、視線が絡み合うだけで満たされた。一緒にいると心地よくてたまらなくて、私はずっとマルコを探していたんだと思った。
 私の全部はマルコのものなのに、だから、マルコに否定されるとバラバラに崩れてしまいそうだ。ようやく堰き止めていた涙が目尻からこぼれ落ちるのがわかる。知らない男が何か喋ってるけれど何も聞こえない。腕が肩に回されて鳥肌が立ったけれど、どこかどうでも良いような気がしていた。
 騒めく夜の街の音も聞こえなくて、当たり前のようにすぐ横の通りにあるホテル街に行こうとしていることもわかって、もういいやと思考を放棄しかけたときに、また腕を強い力に絡め取られて引き寄せられた。ぼんやりと霞んでいた視界が、強制的に現実に引き戻される。弾かれたように顔を上げれば、マルコが初めて会った時みたいな、焦った顔をしていた。

「悪ィな。他の女探してくれ」

 言葉を発する隙もないまま私の腕を強引に引っ張って、マルコは当たり前のようにホテル街に入った。いつものように歩幅を合わせてくれたり車道側を歩いたりとかいう気遣いは一切なくて、たまに足がもつれそうになりながらもついていくことに必死だった。
 慣れたようにマルコは目についたホテルに入り、それこそ慣れた手つきで部屋をとって、マルコに呼びかける隙もないまま安っぽい部屋に押し込まれてしまう。
 それこそそういう行為をするしかないような、部屋の中央に置かれているベッドに乱暴に放られて、過度に柔らかいマットレスの上を跳ねた。体を起こすよりも早く大きな体が覆い被さってきて身動きがとれなくなる。ようやくマルコの顔をちゃんと見ることができて、こんな訳のわからない状況なのにとても安心してしまう。
 複雑そうな顔をしたマルコがそこにいた。笑って欲しいのに、私がマルコを好きだと言えば言うほどマルコの表情は曇っていく。何でだろう? 応えを知りたくてもきっと教えてくれないし、ますますマルコが苦しくなるだけのような気がして深追いできない。私には、私の気持ちを伝えるしかマルコと一緒にいる術がなかった。「マルコ、」と呼んで頬に手のひらを添えれば、高い体温が鼓動を伝えてくれる。

「マルコも私のこと好きでしょ?」

 何度も何度も繰り返した言葉を問いかけたところで、引き結んだ口から言葉は返ってこない。それでも伝え続けるしかなかった。臆病なマルコの心が解けるのを待つしかないからだ。

「そうでしょ? そうじゃないとおかしいよ。…何でだろう? よくわからないけど、でも、きっと決まってることなの。私、おかしいこと言ってるのわかってるんだけど、どうしてもそうだって思って」
「…もうわかった、」
「え、」
「わかったからやめろ」

 今日何度聞いたのだろうか、マルコは深いため息を溢した。覆い被さっていた体をどけてベッドに座るマルコを追いかけるように上体を起こして顔を覗き込めば、「見るな」と大きな手のひらで顔を隠されてしまう。
 マルコみたいに頭が良ければ私も言葉を上手に操れて、この胸の奥に咲く熱情を伝えることができるのだろうか? どうやって説明すれば伝えることができるんだろう? 困らせたいわけじゃないし悩ませたいわけじゃないのに、そればかりしている。どうしたら良いのかわからなくなって、一瞬止まっていた涙がまた込み上げてくる。マルコはやさしいから、泣いている私を見ればもっと困らせてしまう。それは嫌で顔を背けようとするけれど、今度は私がマルコの大きな手のひらで頬を覆われてしまう。マルコに触られると体から力が抜けてしまう。それはまるで、最初はひとつだったみたいに、ピッタリだった。
 溢れる涙をマルコの親指が拭って、額を合わせられれば吐息が触れ合った。まるでキスする前みたいだ。大きな両の手のひらで包まれて、このまま窒息しても良いかもしれないなんて考えていた。

「今ならまだ引き返せる」

 私の心にはこんなにマルコしかいないのに、今更全部なかったことになんてできない。それなのに私を包むマルコの指先が僅かに震えていて、鼓動が大きく揺れた。何をマルコはこんなにも不安に思っているんだろう? 何を隠しているの? 私はどこにもいかないのに?

「おれといると、また傷つくかもしれねェよい」

 苦しげな声が鼓膜を揺らした。マルコが何を言っているのか、何に怖がっているのかも私には全くわからないのに、まるでその苦痛と不安だけが伝わるみたいに心臓が強く締め付けられて、喉が塞がれているようだ。
 次から次から制御不能の涙が流れて、きっとこれはマルコの涙だと思った。マルコが泣けない代わりに、私が泣いている。マルコの震える指先を私のそれで包めば、柔く握り返してくれる。

「…傷ついてもいい」

 私はマルコに傷つけられたことなんてないけれど、例えば誰かが私を傷つけるのだとすれば、それはマルコが良かった。
 私を掬うのも、私を傷つけるのも、私を甘やかすのも、それはマルコのせいでしょう?

「私はマルコがいい」

 苦しくて堪らない。そっとマルコの唇に己のそれを重ねて、触れるだけで離れた。
 こんなにも誰かを求めたことも、こんなにも愛されたいと思ったことも、こんなにも好きだと思ったこともない。自分がこれほど欲深いなんて知らなかった。

「マルコが欲しい…」

 涙交じりの声はひどく情けなくて、それでも返事をするかのようにようやくマルコが私を引き寄せて掻き抱くと同時に私の呼吸を奪った。マルコの広い肩に腕を回してよく深く求めれば、求めた分だけ深く口付けられる。
 欲しくて欲しくて気が狂いそうだった。でも、きっとマルコも同じはずでしょう? だって、マルコの目は私と同じ色をしている。欲しくて堪らないって視線が乞うてる。
 肩を押されてシーツの上に再び倒される。ネクタイを緩めるマルコを見て熱い吐息を吐いた。名前を呼べば欲に塗れた吐息ごと食べられてしまう。広い背に腕を回しながら、際限なく溢れる涙でシーツを濡らした。

(2024.02.16)

- ナノ -