アンダー・ザ・ローズ

scene.4

 迷いに迷って、イゾウに連絡をした。何となく、何となくだけど、マルコのお父さんという人に会った方がいいのかもしれないと思ったからだ。二つ返事で日にちを指定されて、マルコの働いている病院の廊下を歩いている。
 病院は昔から苦手だった。幸い体は強い方で、熱とか風邪からは縁遠かったので余り病院にかかったこともない。会社の健康診断だけ毎年受けているだけだった。
 私の少し前を私のペースに合わせて歩くイゾウに声をかけると振り返らずに何だ、と返ってくる。

「私何にも持ってきてないよ? お見舞いだよね? 何かあった方がいいんじゃない?」
「要らねェだろ。腐るほどもらってるだろうしな」
「体の調子が悪いんでしょ? 大丈夫なの?」
「今日来いっつったのはオヤジだからな。そう心配すんな」

 周りにも病院で入院したりしている人もいなかったし、お見舞いなんて初めてだった。不安に思って病院に来てしまってから色々考えていると、そう言えば何かの連続ドラマでフルーツの盛り合わせのようなお見舞いの品を持って訪ねていたはずだった。もしかしてやってしまったかもしれない。少なくとも血は繋がってなさそうではあるけれど、マルコの親のような人みたいだし、こんな手ぶらでお見舞いに来るような非常識な女なんて嫌われてしまうかもしれない。終わった。どうしよう。ぐるぐるともうどうしようもないことを考えていると、まるで私の思考を読んだかのようにイゾウが「大丈夫だから馬鹿みたいなこと考えるな」と言う。馬鹿みたいなことって。親に嫌われるかもしれないって結構重大なことだよ。
 でも、確かにもう今更どうしようもないことを考えても仕方がない。いっぱいお見舞いの品をもらってるんだったらありすぎても迷惑だろうしなあ、と思考を巡らせた。

 今日ここに来ることはマルコには言っていなかった。普段なら私が何か隠し事をするとすぐに気がつく癖に、全然気づかなかった。夜も余り眠れてなさそうだった。どうすればいいんだろう。時間が解決するんだろうか。でもちょっと長引いているような気がする。
 エレベーターに乗って、イゾウがボタンを押した。独特の浮遊感が体を襲う。その瞬間息を止めてしまうのは私だけなんだろうか。すぐに目的の階に到着して降りると、病院特有の匂いが薄まっていた。

「やっぱりマルコ、何かおかしいんだよね。でもあんまり聞いてほしくないみたいな感じがするの」
「お前がそういうんならそうなんだろ。お前はいつも通りどんだけ鬱陶しがられても纏わりついときゃいい」
「えっなんか私蛇みたいな…何それ…」
「似たようなもんだろ。しつこさは折り紙つきだしな」
「そうかもしんないけど言い方があるじゃん!」

 あんまりな言いように噛みつけばイゾウが楽しそうに笑った。とりとめのない話をしながら歩いていると、なぜか懐かしく思う。イゾウとも会ってからそんなに時間を過ごしているわけじゃない。それどころか数えるほどしか会っていない。なのに、何でかすごく懐かしい気持ちになることがあった。マルコの周りは不思議だ。その郷愁はとても居心地が良くて、体の奥底から満たされていく。
 ノックをしてから、廊下の一番奥にあるドアをイゾウが引いた。特別室って書いてあるから、一番いい病室なんだろう。まず最初に目に飛び込んだのはエースだった。エースがベットのそばにある椅子に座っている。びっくりして名前を呼ぼうとすれば、次に目に飛び込んできたのは大きな体躯のやさしそうな人だった。マルコのお父さんだ。イゾウが病室に入って「連れてきたぞ」と声をかけている。なぜかはわからないけれど喉が塞がれたみたいに何も言えなくなってしまった私を、思慮深いその視線が射抜いた。

「…よく来たな。会いたかったぞ」

 こっちに来いというように大きな手のひらを差し出されて、呆然と立ちすくんでいた足をようやく動かして、ゆっくりと歩み寄った。






 白衣を脱いでしまえばおれに気づく患者がどれほどいるのだろう。流石に何年もずっと診続けている患者は気づくのかもしれないが、それもほんの僅かだと思っていた。白衣を脱いでジャケットを羽織れば少しだけ体にかかっていた重力が軽くなったような気がする。最近眠りがひたすら浅いためか、頭の芯が重くて仕方がない。自業自得だとは思っているのに、どうしても腹の底から冷え渡るあの恐怖を遠ざけるしか方法が見つからなかった。
 入院患者のいる病棟の一番上の一番奥にオヤジが検査のため入院していた。少しばかり肝臓の数値が悪くて、どうせならと隅々まで調べておくようにと言い含めて半ば強引に入院させたのはおれだった。用心しておいて何もなかったに越したことはないからだ。歳も歳だから様々なところからガタがくるのは仕方がないし、そもそも歳の割には元気なほうだとも思っている。顔を見て少し話をしてから帰ろうと早足で向かって、病院のスタッフから労いの声がかかるのをひたすら交わしていた。
 少し強引に引き留め続けていることは自覚していた。何故か昔から直感が鋭かったカンナが、おれの変化に気づいていないはずがない。事実何度も何かを聞きたそうな、様子を伺うような視線を感じたけれど、だからと言って何も言えるわけもなく、増してや説明なんてできるわけもなかったので気づかないふりをし続けていた。ただ、その華奢な体を腕の中に閉じ込めている間だけはあの恐ろしい夢の温度を紛らわすことができた。大丈夫だと背に回る細い腕が伝える安心と熱情を、無垢な気持ちの在処を感じることができればそれだけで信じられないくらい安堵することができるのだから狡くて仕方がない。
 ため息をついて指先に触れるスマホに電源を入れれば通知が何件か入っていた。オヤジのいる病室は特別室で、ソファが廊下に備え付けてある。見知った顔がそこに座っていて目を剥いた。

「イゾウ、…エースもいんのか」
「ああ、今日は終わりか?」

 ふたりがオヤジの見舞いにこまめに来ていることは知っていた。以前たまたま同じタイミングで見舞いに来て、そのときにイゾウと会ったエースがおれと会ったときと同じように喜んで飛びついているのを見て、オヤジが楽しそうに笑っていたことを思い起こした。それから度々連絡を取り合っているようで、ふたりで飲みに行ったりしているようだった。
 エースを見るとどこか気まずそうに視線を逸らされる。「今日はもう終わりだ」とイゾウの問いに答えて、手で凝った肩を揉んだ。ソファに座ったまま病室に入ろうとしないふたりに不信感が増した。そろそろ面会時間が終わるので、もう見舞いが終わったのかもしれないとも思ったが、だとしたら何でまだ帰らないのか。

「入らねェのか?」

 その問いに答えることなく、イゾウが真っ直ぐにおれを射抜く。嫌な予感が背筋を走って震わせた。脳裏にチラつくのは心配そうにおれを覗き込むカンナの顔だった。寝不足で思考能力が低下している。そんなおれの変化に気づいていて、気づいているのにずっと放っておく女じゃないってことはわかっていたはずだった。

「…誰か入ってんのか?」

 自分でも底冷えするような声だと思った。その言葉の答えを待つまでもなく病室のドアを引こうと手を伸ばしたそれをイゾウに阻まれる。それが答えだった。ほぼ反射的に本能のまま掴まれたその手を振り払って、力加減をすることなく腕でイゾウを壁に叩きつけていた。エースの焦ったような声が廊下に響いたが、ここが奥に位置する為か誰かが来る様子もなかった。
 燃え上がるような怒りだ。流石と言うべきか、エースが咄嗟におれとイゾウの間に腕を差し込んで衝撃を緩和していた。涼しい顔をしている目の前の男が、澄んだ視線を送っている。それがまた怒りに油を注いでいるようだった。この衝動を制御できる気もする気もなく押さえつける腕に力を込めれば、エースがおれを呼んだ。

「……ッ」
「マルコ! やめろ!」

 オヤジに会わせる気なんてなかった。それを不義理だと言われてしまえば仕方がない。会わせろと言われても、どんなに世話になった人の頼みでもしないと決めていた。
 お前を守れずに死なせたおれのことも、おれを守って死んだあのときのことも、何も思い出して欲しくない。自己保身だと思われても構わない。実際そうだった。
 イゾウの何もかも知っているかのような視線がじりじりと心臓を焼いているようだ。お前に何がわかる。お前は知っているはずだろ? あのときあの戦争で彼女を死なせたことは、おれたちの拭い切れない汚点になった。
 オヤジに会わせて思い出したら、それでどうなる。耐えれるのか? 戦闘員でもない普通の女だったカンナが、あのときの衝撃を耐えれるとでも思っているのか。
 イゾウが深くため息をついて、ようやく押さえつけるおれの腕に触れた。

「どうなるかはわからねェがカンナは何も変わらねェよ」
「お前…!」
「やめろって、腕離せ!」

 細い糸の上を爪先立ちで歩いている。おれの腕を掴むイゾウからは、まるで振り解こうとする意思は感じられなかった。

「お前の気持ちもわからなくもないがな。怖がってても何も進まねェだろ」

 エースが訝しげにおれたちを見ている。エースは何も知らない。エースか死んだあとのことだったからだ。イゾウが視線をおれから外して、目を伏せた。長い睫毛が頬に影を落としている。一瞬強く腕を握る手に力がこめられた。

「お前は忘れたのか?」

 まるで絞り出すような声だった。喉の奥から苦しげに吐き出した過去の後悔だ。

「今度こそ信じてやれよ。今度こそ、お前は一緒にいてやれ」

 何のことだと問おうとしたとき、背後からドアが引かれる音がしてエースがカンナの名前を呼んだ。状況もきっと把握できていないのだろうけれど、迷うことなく華奢な体がおれとイゾウの間に割り込んで入ってくるのにようやく腕を引いて、驚いている彼女の手を引いてその場を後にした。

(2024.03.21)

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