アンダー・ザ・ローズ

scene.3

 気のせいだったのかと思う。訝しげに洗い物をしているマルコをソファから眺めながら、ここ数週間ずうっと感じていた違和感を思い起こした。普通で普段通りのマルコを見ながら、全部私の気のせいだったのかもしれないと思った。

 今日は私もマルコもお休みで、買い物やドライブしたり、たまに家でと思ってご飯を作って一緒に食べたりしながら過ごした。ずっと私は自立してひとりで生活をしていたから、ある程度の自炊はできるし嫌いではない。掃除や洗濯もそうだ。料理は凝ったものはすぐには作れないけれど、簡単なものだったらすぐに作れる。作りながら大きいものは洗っていたので、大した洗い物は残っていなかったのも手伝って、私が作ったので片付けは自分がするというマルコに逆らわずに任せるに至った。
 外食するよりも作ったほうが安かったし食べるなら美味しいほうがいいし、ただそれだけのために作ってきただけだったけれど、それで誰かに美味しいと言ってもらえるのはとてもうれしいことだった。今はそうでもないけれど、ひとりで暮らし始めたばかりの頃はお金もないし仕事もそこまで稼げるわけではなかったので、そのときに手探りでしていたことが今でも役に立っている。
 じっと観察するみたいにマルコを眺めて、きっと私の視線に気づいているくせに気づかないふりをしている。気のせいだったのかな? 以前変な夢を見たようで、そのときからマルコが変なような気がしていた。朝起きるとすっかり普段通りで、それこそ夢だったのではないかと思うくらい何の変化もないようにも思えたが、でも何か言葉にはできない違和感をずっと感じていた。でも、イゾウに例えばどんなことだと言われても全く説明できなかった。何だろう、でも確かに変だなと強烈に思ってしまうくらい、何かが変だと感じたのだ。イゾウには帰してもらえないと咄嗟に言ってしまったけれど、別にマルコに帰るなと言われているわけじゃなかった。何となくそんな雰囲気になって、私も何となく気になってしまってズルズルこの部屋に泊まり続けているだけだ。

 ソファのそばに置いてある鞄を手にとってキッチンにいけば、備え付いてある食洗機にすべて入れて片付けが終わった頃だった。手を拭いているマルコに後ろから抱きつけば、笑って「どうした」と言われる。高い体温が心地いい。マルコはやさしくて、ひたすら私を甘やかしてくる。その度に私は彼に溺れていくので、私に酸素を与えられるのも当人だけだった。

「今日は帰るね。マルコは明日仕事でしょ?」

 唐突に数週間帰っていない自分の部屋が気になった。人が住んでいなくとも部屋は汚れることを知っている。フローリングを歩いたときの、掃除をしていないとすぐにわかるザラザラした感じがとても嫌いだった。だらしない気もするし、部屋が汚れると無性に全部捨てたくなってしまうのは何でだろう? マルコは明日仕事だと車で言っていたけれど、私は連休だったので丁度いいと思った。部屋の大掃除でもして隅々まで綺麗にしても良いかもしれない。
 まだそこまで遅い時間でもないので、電車で帰っても大丈夫だろうと思う。マルコはお酒を飲んでいたことを考えていれば、回した腕を引かれて彼の正面に体が回った。驚いて顔を上げれば瞬きをする隙もなく食べられるみたいに呼吸ごと奪われてしまう。見開いた目がマルコのそれと合わさったのに、すぐに差し込まれた舌の熱さに驚いて、反射的に固く目を閉じてしまって見落としてしまった。無遠慮に私の口内を這い回る舌に翻弄されてしがみつくしかできない。ついていくのに必死になっていれば、体が浮いてキッチンに下ろされる。片足を抱え上げられてとんでもない体勢にされているのにびっくりして肩を押したけれど、そんなことが抵抗になるわけもなくてどうしようもない。体を引けないようにか大きな手は後頭部に回っていて、長く呼吸を奪われて思考がぼんやりと霞んでくる。足の付け根をなぞる様にされると体が跳ねて、自然とその先を期待する体に首まで赤く染まるのがわかった。ショーツの上から指を滑らせれば音が聞こえるのではないかと思うほど体の中心がキスだけで潤っていることがわかってしまって、マルコが口角を上げた。もう一度肩を強く押せば舌先を吸われて、名残惜しげに唇がようやく離れていく。不足している酸素を求めて肩で息をしていると首筋を強く吸われて、躊躇いなくショーツの中に無骨な手のひらが侵入した。

「な、なに急に…っ」
「濡れてんじゃねェか」

 直になぞられて一瞬息をつめてしまう。ぞわりとする痺れが体を震わせた。まるで私がひとりでそうなったかのようなのんびりとした声音に驚いて、かっと頬が赤く染まった。

「マルコが触るからじゃん!」
「お前が帰るなんて言うからな」
「だって、だから部屋の掃除しないとだし…!」
「ここにいろ」

 また首筋に噛みつかれて、ピリッとした痛みが走る。だめだと何度言ってもマルコは痕を残したがった。見えるところは服でも隠しようがないし、どうにもならないところはだめだと何度も言えば、妥協点なのか首筋に残すことはしなくなったのに、絶対に今は刻んでいるとわかる。でも何故かだめだと言えなかった。またここ数週間ずっと時折感じ続けている違和感が首を跨げる。これは何だろう? 何かが変だ。でも到底言葉にできない。何かがおかしいと体の奥底から叫んでいる。その声の叫ぶまま、私の下肢に触れる彼の手首を掴んで止めていた。

「マルコ、なんか変だよね?」

 間近で視線が交錯した。冷静に戻っている私の声に驚いたのか探る様な私の視線に動揺したのか、欲望が垣間見える瞳がゆるく見開かれる。これは強烈な違和感だった。何かがおかしいと体の奥底から叫ぶ。これはマルコと出会ったその瞬間に感じていた声だった。強く私を突き動かす、止めようもない衝動だ。
 交錯した視線はすぐに逸らされてしまう。慌てて追いかける私の首筋にまたマルコの舌が這って背筋が粟立った。肩の服を掴んでまた向き合おうと引くけれどびくともしない。体を這う大きな手のひらはいつもと変わらず穏やかでやさしかった。

「ねえマルコ…っちょっと…!」
「何もねェよい」
「何もなくても話聞いてって…、」

 ぬるりと指先が私の中に埋め込まれて息が止まった。指先まで震えて反射的にマルコの肩に縋り付いてしまう。躊躇なく奥に埋め込まれる長い指が気持ちの良いところを容赦なく刺激して、脳が麻痺していくのがわかった。
 与えられる刺激にもう堪えるしかなくなってしまって、ゆっくりとほぐす様に動く指先に翻弄されてしまう。耳朶を舐め上げられると噛んだ唇の奥から高く呻くような声が漏れてしまって涙が滲んだ。マルコの肩に顔を埋めて自然と出そうになる声をひたすら我慢していると、顔の輪郭を確かめるようにやさしい口付けが順番に落とされる。噛み締めている下唇を咎めるように喰まれれば、引き結んだ力が少しだけ解けていく。

「…っはァ、ぅ、」
「舌出せ」
「ま、待ってって、んんっ」

 ぼやけた思考と力の入らない体が言うことを聞かない。目の前にいるマルコの声だけが世界のすべてのようで、それしか考えられなくなっていた。また食べられるように唇を塞がれると、自然と言う通りに舌を差し出してしまう。抵抗という抵抗をしなくなって言われるがままになった私に気をよくしたのか、合わせられたまま彼が口角をあげるのがわかった。体に埋め込まれたままの長い指が体の奥を刺激して掻き乱しているのに合わせて腰が揺れている。まるでマルコを喜ばせるように染められているのに体が熱くなっていく。どんどん熱が上がっていくのにもうだめだと内股が震えて、肩にしがみつく腕の力を強めた瞬間急に私の中から長い指が引き抜かれてしまった。突然の喪失に驚いて体を離せばマルコが意地悪そうに笑っている。濡れた指を見せつけるように舐められると恥ずかしくて堪らなくて顔を逸らせば、また露わになった首筋に舌を這わされる。中途半端に投げ出された体がどうしようもなく疼いて、そんな些細な刺激にびくりと揺れた。

「どうしても帰りてェならこのままここで抱いてもかまわねェがな」
「マルコ、待って、」
「どうする? どうしたい?」

 答えなんてわかりきっているはずだった。体の中心をなぞるように撫でられて、ぞわぞわと体の奥から何かが溢れ出す。投げ出された太腿に固いものを押し付けられると、やがて訪れる快楽を知らず知らず期待してしまう体が恨めしい。

 別にマルコのすべてを知りたいわけじゃない。誰にだって知られたくないことはある。私にだってある。だから、マルコがどうしても私に言いたくないことがあるっていうことにずっと前から気づいてはいたけれど、それには触れないようにしていた。深追いしても傷つけるだけかもしれないからだ。すべてを知ることが好きだということじゃない。別に知らなくたっていい。わからなくてもいい。それよりもずっとずっと怖いことを私は知っているはずだった。でもそれは何だろう? 私に選択肢を委ねるマルコと間近で視線を交わせば、瞬きの刹那瞼の裏に何かがちらついた。マルコの後ろ姿だ。私の知らないマルコの背中だった。ぞっとして慌ててマルコにしがみつけば、迷うことなく高い体温に包まれる。いつもより早い鼓動を感じてホッとする。どくどくと鼓膜を叩く自分の心臓が煩わしい。何だろうこれは? でも先ほどのちらついた背中を思い起こそうとしても何も思い出せなかった。「カンナ」と名前を呼ばれると殊更安心して私も彼の名前を呼んだ。

「……ここじゃいやだ…」
「じゃあどうする」

 彼のすべてを知りたいわけじゃない。でもその私の知らない何かがマルコのバランスを崩しているのであれば、話は別だった。肌を合わせて安心するのであればそれでいいし、話したくないのなら話さなくたってかまわない。結局は他人だから、全部をわかりあうなんてできないことはわかっている。でもわかりあおうとすることはできるでしょう? 知らないふりなんてできないことくらい、わかっているでしょう?

「ベッドにいきたい…」

 とても恥ずかしくてマルコだけにしか聞こえないような声で呟けば、満足したように私を抱き抱えてくれる。額にやさしいキスを落とされて、首にしがみつく腕に力を込めた。気のせいであればその方がよかった。あの夜、どこにもいくなと呟いたことを覚えているのだろうか。忘れていたとしてもいい。私がずっと覚えている。寝室に向かうマルコの首筋に顔を埋めて、あの夜を思い起こした。マルコはずっとあの夜から出られていないのではないだろうか。夢の中から醒めていないの? じゃあ早く起こしてあげたいのに、その術が私には見つからなくて袋小路に陥っている。「マルコ」と名前を呼べば、同じだけのあたたかさを持って私に触れる。やさしいマルコを襲う夢が、同じだけやさしい温度をしていればよかったのに。

「好きだよ…」

 すべてを語らなくたってかまわない。全部を話してくれなくてもいい。逃げたっていいし目を逸らしてもいい。それが悪いことだなんて思わない。でもきっとマルコは逃げないし目を逸らさない。だからこうして夢の中で怯えている。ベッドに丁寧に私を下ろしたマルコが目元に口付けを落としてくれる。呆れたように笑って「知ってる」と言うその唇に、隙間を埋めるように私のそれを合わせた。

(2024.03.10)

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