ショート

不治なる最愛

 その姿を手配書以外でこの目にうつしたのは一度だけだ。たった一度だけ。噂の通り、白ひげ海賊団は海軍を相手することはなく、煙に撒かれているようにまともに戦闘という戦闘は起こらなかった。殿をつとめたらしいその男は私たちの頭上を縦横無尽に飛び回り、仲間に、そして私たちにも余計な怪我や戦闘が起きないように見張っているようだった。
 その青い炎が目に焼きついて離れない。この心臓さえも焦がされている。寝ても覚めても瞼の裏にちらつくのは幻想的なうつくしい炎だった。その姿に釘付けになっていると刹那、あの深い双眸と視線が交錯したような気がした。すぐに後ろにいた上司に声をかけられて意識を外してしまったけれど、きっと見られていたし知られてしまった。しくじったと思った。とんでもないミスをした。私はどんな顔をして彼を見ていたのだろう。どんな顔をして、どんな欲望を抱いて彼を見ていたのか。海賊団がするりとその場から消えてしまったあと、随分とその場から動けなかった。誰の血も吸っていない土を踏み締めて、肌に食い込む己の爪の感覚だけを追いかけていた。それは果てのない後悔と深海よりも深い侮蔑だった。

 だから、路地裏で私に立ち塞がるように汚い壁にもたれて立つ大きな男に喉が塞がれているようだ。あのときの忘れてしまいたい、脳裏に刻み込まれた欲望と渇望を昨日のことのように思い出す。かの有名な目の前の男が間近に佇んでいる。それはこの先海軍に身を置いていたとして、相見えることができる可能性はゼロに近いのではないかと思える程には彼方遠くの人物だったはずだ。舌打ちをひとつ溢せば喉から聞こえる隠されない笑いがくつりと聞こえた。それにまた神経が逆撫でされていく。

「よう」

 今日は非番で、頭によぎる残像を消したくて行きつけのバーで飲みすぎたと思っていたときだった。非番であっても周りに気を配ることを忘れたことはないのに、まるでその気配に気が付かなかったことを深く恥じた。アルコールの回った頭がうまく働かない。沸騰しそうなくらいグラグラと血が身体中を巡っていた。
 ゆっくりと私に近づいてくるその男に反射的に腰に手を彷徨わせて、武器という武器をすべて自室に置いてきてしまったことに気づいた。分が悪すぎる。あの不死鳥相手に丸腰では、命を差し出していることと同義だった。近づいてくる彼に同じ分だけ後退ったけれど、すぐに背中に薄汚い壁が触れた。不用意に騒ぐわけにもいかない。どうにかして応援を呼ばないといけないのに、この足が、腕がまったくいうことを聞く気がしなかった。あの青い炎を思い出す。あのうつくしい幻想的な、恐ろしいほどの幽玄さを絶え間なく瞬きの度に覚えていた。
 壁に手をついてぐっと近づかれると呼吸を失っていく。心臓が壊れてしまいそうだ。状況を打破する術を私は何も持っていない。言うなれば生まれたばかりの姿で敵の前にぼんやりと立ち竦んでいる。自分の迂闊さとどうしようもない羨望に吐き気がした。名乗ってもいないのに私の名前を呼んだ。その温度にじわじわと侵されている。やめてと叫び出しそうになる声を喉を振り絞って押し殺した。

「縁があるな?」
「ない。消えて」
「つれねェよい」

 私の髪を一房掬って、まるで恋人にするかのように口付けるその様をスローモーションのように眺めていると、視線が交錯する。あの戦場を瞬間思い出してしまった。
 私はどんな顔をしていた? どんな欲望を持って彼を見ていた? どんな風にあのうつくしい青い炎を追いかけたのか?
 「ずりィな、」とため息を溢して無遠慮に拒否を許さない大きな手のひらが私の頸を覆って引き寄せられるのに、また心臓が跳ねた。私は私の命を目の前の憎い海賊に握られている。鼓動が鼓膜を叩いて、それが恐怖からくるものなのか、それとも全く別の何かなのかさえも曖昧になっていく。間近で視線を合わせられるともうそらせなくなってしまう。苦しい。苦しくて仕方がない。この苦しみをどうにかできるのはきっと目の前の男だけだ。わかっているのに認めたくない。

「先に口説いてきたのはそっちだろ」

 首筋まで赤く染まるのが自分でもわかった。眩暈がする。身体中に回っているアルコールのせいだけじゃない。どうにか動かしにくい腕を動かして、目の前の厚い胸板を押したけれど、そんなことでどうにかなるわけもない。ぐるぐると逃げ出す術を回らない頭で探し続いている。
 カラカラになった口内から乾いた息が漏れた。私は海軍だ。そこそこ重要な立ち位置にいる。名前をこの男が知っているくらいには世に知られているのだろう。だから簡単に揺らぐわけにはいかない。簡単に赦すわけにはいかない。もう一度強く腕で押せば、節くれだったざらついた指先が私の頬を撫でた。ぞわりと背筋が粟立って身体の軸が熱を持つ。

「…何言って」
「惚けるにゃ分が悪ィ」

 誤魔化すような私の声を遮って路地裏に響くその声が身体の奥を犯していく。頸に回った手のひらに力が込められたと思った刹那、口を塞がれて呼吸を奪われていることに遅れて気がついた。角度を変えてすぐに深く貪欲に奥底まで求められていて、自由に這い回る舌が熱くて瞼の裏が弾けた。押し除けようとした腕は目の前の男に縋り付くようにシャツを握りしめている。
 何でこんなことになっているんだろう。憎いはずの立場の男に好きなように弄ばれている。抵抗しなければいけないと警笛が脳内で鳴り響いていた。その縋り付いている腕を動かして、何なら口内を這い回る舌を噛み切ってしまえと海軍としてのなけなしの理性が私を責め続けているのに、どうしてこの身体は言うことをきかないのか。器用に私の理性を抑え込んで溶かそうとするこの男の熱に逆らえない。だから会いたくなかった。
 生理的な涙が目尻に滲んだ辺りで下唇を喰まれてゆっくりと離れていく。銀色の糸が引いて、お腹の奥底から得体の知れない感覚がじわりと滲んだ。体温の高い手のひらが服の隙間から素肌を撫でて、意図する先を見せつけてくるのが煩わしくて仕方がない。耳朶を甘噛みして喉の奥から込み上げるようにまた笑われて、一層力の入らない腕で胸を押すと、やっと僅かばかりの距離をとれた。

「…随分節操がないのね」
「そりゃお互い様だ」
「一緒にしないで」
「…そうか? おれの思い違いだったら悪かったよい」

 目尻に浮かぶ涙を親指で拭い取られる。あなたなんて見たくなかったし知りたくなかった。こんな自分の欲望なんて感づきたくなかったし、知らないまま人生を終えた方が何倍もしあわせだった。何で憎しみと嫌悪は違うのだろう。憎くて憎くて仕方がないのに、あの青い炎が消えない。悠然と羽ばたくあの姿が頭から離れない。きっと欲望にまみれた目をしていた。欲しくて仕方がないと瞳が乞うていたはずだ。誤魔化しようもなく明け透けに私はこの男を求めていた。だから、何ならあの場で殺されていた方が良かったのに。
 顎に指先で触れられて、誰にもされたことがないくらいやさしく、それでいて決して許さない力で視線を絡め取られてしまった。振り払うのなんて今度は簡単だ。はたき落としてしまえばいい。簡単なのに、固まってしまったみたいに身体が硬直していた。逃げ場がない。口角を上げて笑う男が、すべて知り尽くしているように穏やかに囁く。

「おれのものになるだろ?」

 眩暈がする。アルコールだけのせいじゃない。ごくりと生唾を飲み込めば、それさえも勘づかれているような気がした。詰めていた息を深く、ゆっくりと吐けば指先に感覚が戻ってくる。私のよりもずっと高い男に震える指先を伸ばせば、意外だったのかゆるく目を剥いていた。
 会いたくなかった。魅せられてしまうのは私だと知っているからだ。憎んでいるのに何で嫌悪できないのかまるでわからないし理解もできない。憎いのに欲しかった。

「海賊なんて大ッ嫌い」

 喉から絞り出した声は情けないほど掠れていた。胸元の服を力任せに掴んで引き寄せて、その唇を奪ってやればまた瞠目しているのがわかってやっとほんの少し溜飲を下げたけれど、また面白そうに隠さずに笑って深く腰を抱かれてしまった。もう引き返せない。来た道は戻れない。
 あなたが欲しいと言ったとしても私のものになんてならないくせに、私を掻き抱いて私を見つめるその視線は私を逃すまいと拘束する。あの日に視線が交錯したそのときに、きっと私は負けていた。それでもいいと思えるほど、おそらく欲望に浸された目をしていた。首筋を強く吸われて身体の奥から熱が跨げる。また名前を呼ばれて、返事の代わりにようやくその広い肩に腕を回した。

(2024.04.04)

- ナノ -