ショート

ゆっくりと熱を失うように

 ちいさく呟いた名前は、なんの意味も持たずに地に落ちて消えた。震える体と反比例するかのように、もうその声はとても震えていなくて、流れる月日を否応なしに自覚してしまう。それでも必死に忘れまいと悪あがきをしていた。薄れていく記憶と想いを手放したくなくて、遠ざかっていくあの日々を必死で抱きしめている私を、マルコはいつだって静かに見守っている。
 いつだってふとした瞬間に思い出す彼の瞳や力強い声の形に目眩がして、膝をついてしまえば立ち上がれなくなってしまった。墓石はとても硬くて冷たくて、生前の彼とは真反対のそれにこれは彼ではないと心臓が速く穿つ。鼓膜まで響くその鼓動が警笛を鳴らしているようだった。指先を墓石に滑らせれば、拒絶されるような冷たさにぞっとする。涙さえも溢れなくなってしまったのはいつからだっただろう。忘れたくないと駄々をこねる私を、忘却はやさしく攫っていく。

 何もかもが終わってしまった後、マルコは私をこのやさしい村に連れてきた。きっと彼の墓石と近い場所だったからだ。これはやさしいマルコの気遣いで、穏やかな掬いだった。どれほど私が取り乱して、それこそとても酷いことを言ってマルコを責めたりもしたけれど、マルコは決して私を責めたりしなかった。謝ったりもしなかったが、立ち止まり続けて進めない私を絶対に責めたり、追い立てたりもしなかった。私の酷い言葉を受け止めて飲み込んで、いつものように変わらずやさしく穏やかな手のひらで、黙って私の体を落ち着かせるように撫でた。「やさしくしないで」と言えば、笑って「やさしくなんてしてねェだろ」と言う。どの口が言っているんだろうと思うほど、それこそやさしげな言葉は私のひりついた心をゆっくりと、静かに溶かしていく。それがとても嫌で、時折墓石に足を運んで確認をするように冷たい感覚を感じた。

 いつから愛してると叫べなくなったのか覚えていない。彼を目の前にして泣けなくなった意味なんて自覚したくなかった。あんなにも激しかった衝動や焼け焦げるような熱情が、今はもうどこを探しても見つけることができないことに気づいてはいたけれど、自覚したくなくて目を逸らし続けている。震える指先が雑草を掴んで、地に爪痕を残す。爪先を荒い土が汚して、目の裏がぐるぐると旋回するような不快感を覚えた。
 背後から大きな羽音が聞こえてマルコだとわかったけれど、振り向きたくなくて手のひらをぎゅっと握った。

 こうして途方もない後悔に身を浸していると、必ずマルコが私を迎えにくる。それは船に乗っているときからずっと変わらないことだった。マルコの穏やかなやさしさが今はとても苦しくて仕方がない。喉元を真綿で締められているかのような、じわじわと身体中に滲み渡る苦しさだった。このままでは溺れてしまう。でも私が溺れてしまったら、誰がマルコを掬えるんだろう? マルコだって今なお息継ぎさえできないのかもしれないのに?

 隣にしゃがみ込んで目線を合わせてくるマルコに抵抗することなく顔をあげると、いつも通りの穏やかさを持っていた。その深い瞳を見れば、「どうした?」と笑って汚れた爪先を攫われる。

 放っておいて欲しいと言ってもきっとマルコは放っておいてくれない。絶対に仲間を見捨てないマルコが、自暴自棄になっている私を突き放すことなんて絶対にしない。理解っているからとても焦ったくて、とても苦しかった。
 荒く土を払われた手のひらをマルコの頬に寄せると、驚いたように目を見張った。そう言えば、私からマルコに触れたことはなかったかもしれない。爪先が土で汚れている。いつだって自分を追い詰めて汚し続けているのは、自分自身だった。マルコの大きな手のひらが汚れた爪先ごと包んだ。心臓の中心が騒いでいる。私は何をしたいんだろう? 彼のところへ行きたいんだろうか? それともまだ生きていたいのか。どうしたいのかさえもわからなくて、わかっているのは穏やかなマルコのやさしい体温だけだった。

「マルコは死なない?」

 私たちは失いながら生きていくしかないとして、それはそうだとして、そうだとしてもそれだけでは嫌だった。きっとマルコも深く、それこそ私よりもずっと深く深く傷ついていて、それでも正気を失えるほど孤独でもなければ幼くもなかった。私はいっぱいマルコを責め立てて傷つけたけれど、おそらくマルコが誰よりも思っていたことだった。だから、マルコは私に謝らなかったけれど、私はマルコに謝らなくちゃいけなかった。

 マルコまで失ってしまったら、きっともう死んでしまう。ゆっくりと唇が重なって、とめどなく涙が溢れた。忘れたくないと言えば、マルコはきっと忘れるなと言う。おれも覚えているから、忘れるな。残酷な私の言葉たちは、どれほどマルコのやさしい心を殺し続けてきたんだろう。どこにも行ってほしくなくて、何も諦めてほしくもなくて、手を伸ばせばすぐに抱き竦められる。

「おれはどこにも行かねェよい」

 確かな高い体温を感じて、ようやく鼓膜を騒がせていた鼓動が落ち着いた。広い背中に腕を回して、あの小さな家に帰ったら、汚れた爪先を綺麗にしてから、私たちの話をしようと思った。

(2024.01.14)

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