春怪異譚
和泉史貴という名の『怪異』



僕には、人には見えないものが見える。物心ついた頃から、ずっと、僕の目には、"ありえないもの"が見えていた。それは、所謂幽霊であったり、妖怪の類であったり、様々ではあったけれど、一貫して、人に見えてはいけないものであることは、確かだった。僕はそれらを怪異と呼ぶ。

喉から呼吸音が抜ける。地面へと仰向けに倒され、首を絞められた体勢のまま、薄っすらと目を開ければ、けたけたと笑う女の顔が間近にあった。女のそこかしこから、滴り落ちる血潮が、咥内へと入り込んで、呼吸を妨げ、酸素が足りなくなって、嗚呼、まずいなと、どこか他人事のように考えた。ぶつぶつとひたすら呪詛を唱える女を、冷たく一瞥する。妙に冴えた頭が、ふつりと湧き上がる憤怒を、どこか遠くで認識した。右足を、ゆっくりと引き上げる。左足で、地面を踏みしめ、そうして、渾身の力で、女の鳩尾へと、革靴を叩き込む。何重にも重なった耳障りな悲鳴を上げて、女の身体が、僕の上から吹き飛んだ。



「……舐めないでくれる、悪霊風情が」



緩慢な動作で身体を起こし、咥内に入り込む、不快な血潮を吐き出す。口元を手の甲で拭い、粘着いた舌触りを振り払うように、血の塊を吐き捨てれば、女の纏う空気が変わった。普通、幽霊と呼ばれるものに、人間は触れない。認識の違いとでも言えばいいのか、少しばかり世界がずれていると言えばいいのか、とにかく、そこにありながら、そこにいない、彼らはそういう存在だ。それにも関わらず、僕は今、幽霊、否、悪霊である彼女に、物理的に蹴りを入れることにより、彼女の腕から逃れている。

僕は特異な存在だ。僕は、普通の人間より、彼らに近くある。だから、触れる。そうして、そういう存在は、彼らにとって、脅威だ。



「……ロス…殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す」
「やれるものなら、やってみなよ」



女と、真正面から向き合い、呼吸を整えて、睨み合う。やれるものならやれとは言ったものの、この状況では、圧倒的に僕が不利だ。僕は、超能力者でも、霊能力者ですらない。否、超能力などあっても、こんな相手には無意味だろうし、加えて、並の霊能力者では、こんな憎悪の塊、相手に飲まれて終わりだろう。一体どんな死に方をしたら"こう"なるのか、本当に、知りたくもない事実だ。びちゃびちゃと滴る赤い血潮と、酷い腐臭に、鉄錆の香りが充満して、吐き気がする。札も、数珠も、お神酒も、何もない、この状況で、僕はどこまでやれるのか。何も道具がないとするなら、頼ることが出来るのは、己自身の力のみ。ゆっくり、深呼吸して、重心を落とし、地面を踏みしめる。憎悪に塗れた呪詛を繰り返し、女がゆっくりとこちらへ歩み寄る。逃げずに、目を逸らさずに、あまりにおぞましいその姿をひたすらに見つめ、女の手が僕へと伸ばされたところで、僕は思い切り、己の親指を噛み千切った。鋭い痛みと共に溢れ出す赤い血を、女の顔へと振り撒く。

僕は『和泉』の血を引いている。どんなに道具がなくとも、僕の血は、それだけで、怪異に有効だ。"そういうもの"には、力の加減によっては硫酸にも等しくなる。近距離で血を浴び、焼け爛れるような生々しい音を上げて、元から崩れていた女の顔が、ついに原型さえ留めぬほどに朽ち果てる。おぞましい声が口らしきものから零れて、老若男女どれとも付かない呻き声が、夜の闇につんざいた。地を蹴り、女の頭を鷲掴むようにして、渾身の力で握り締める。それは物理的な意味ではなく、もっと別の、感覚的な意味合いだ。そこの空間を捻じ伏せる、空間ごと捩じ切る、空間ごと捻り潰す、それだけに意識を集中して、今度は僕が、爛れた顔の女を、地面に押し倒した。女の顔が、何かに踏み潰されたかのように、ぐしゃりと歪んでいく。最早意味をなさない獣のような呻き声を上げ、抜け出そうと暴れるのをギリギリで抑え込み、早く潰れろとさらに力を籠め続けた。なりふり構わない暴虐的な反撃で、僕の身体も自然、傷ついていく。頬が切り裂かれ、腕の肉が浅く裂け、肩に食い込んだ女の爪と、首に絡む長い髪が、生命を断とうとただ暴れる。永劫にも続きそうな攻防戦は、しかしあっさりと決着はついた。

何かが、砕けた音がした。音に気を取られ、一瞬力が緩む。はっとして視線を下へと戻すも、そこにはすでに、女の姿はない。すぐに身体を起こして、周囲を確かめれば、あの、薄皮一枚を隔てたような空間は消え去り、元の世界に戻っていると感覚で解る。けれど、そこにまだ色濃く残る、女の気配、怪異の匂い。恐らく、砕けたのは、空間を隔てていた何かだろう。暗闇と、揺れる木々と、佇む本堂、視界に映るそれらは本物で、そこは間違いなく、先程まで自分達がいた、町外れの神社だった。呼吸が解放されたことで、軽く咽込み、辺りをゆっくりと見渡す。滴り落ちていた血潮の痕跡は、当たり前だが、微塵も残ってはいなかった。


「……遠野達は、どこに」


先程、見失った、四人の後輩の姿どころか、気配さえも、ここにはない。僕がいなくなったことに気付かなかった…とは、考えにくい。ならば、神社から戻り、誰か大人に連絡をしているだろうか。いや、下手したら、僕の捜索を続けて、まだここにいるかもしれない。最悪は、あの女に、ここではないどこかに連れ去れているのだろうか。考えていても仕方がない、まずは彼らを探さなければ、話が進まない。乱れた髪を掻き揚げ、溢れた血潮を拭って、小さく溜息を吐き出した。念の為、携帯を取り出して四人の電話にかけてみるものの、結果は全て、「電源が入っていないか、電波の届かない場所にいます」で、繋がる兆しもない。メールやLINEも同じで、全て返ってきてしまった。舌打ちをしつつ、まずは参道を戻ろうと歩く傍ら、うふふと笑う女の声を背後に聞く。



「……許サなイ」
「…しつこいね、君も」
「許さない許さない許さない憎い憎い憎い憎い憎い、お前も道連れにしてやる、お前もこちらに連れてきてやる……この…






なり損ないが」




「はぁ…うるさいな。

――――――『それ』が、何?」






そんなこと、とっくの昔から。
知っている。


振り向いた先、月明かりすら届かない木々の闇の中、そこには誰の気配も無い。ぴちゃり。足元に、女の顔から滴り落ちたであろう、どす黒い血の塊だけが、嫌に存在感を放っていた。




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