春怪異譚
曼珠沙華は黄昏に嗤う



時折、自分が生きているのか死んでいるのか解らなくなる。呼吸をしているのだから、多分、生きているのだろう。身体を起こして、ぼんやりと窓の外を見やる。外は、雨が降っていた。明るい陽射しが瞼を貫く。嗚呼、狐の嫁入りか。空をけぶらす夕暮れの光の中、橙を反射してきらきらと水滴が輝いている。うっかり昼頃まで書物を読み耽っていたせいだろうか、太陽が傾きかけた頃に眠ったので、十分な睡眠を取れておらず、休息を欲する身体は泥のように重く、今にも瞼が落ちそうになってしまう。身体全体が、重い。もう一度寝るかと、身体を支配する睡魔に身を任せ、ベッドを軋ませて、横になった。そうしたら、女と、目が合った。

裂けた唇、窪んだ瞳、ひゅーひゅーと抜ける呼吸音。あるのかないのかも怪しい目は血走り、垂れた血潮が頬を伝う。最早耳の辺りまで開けているのではと思えそうな口が開き、言葉にならない声を漏らす。言葉になっていないというのに、それは誰かを呪う、呪詛の言葉であると、容易に理解した。

嗚呼。また来た。溶けたみたいに動作の遅い右手を持ち上げ、女の方へと手を伸ばす。何事かをぶつぶつと呟いていたその女は、僕の手が触れた途端、おおよそ人が出すような声でない、酷い断末魔の叫びを上げて、その場から消え去った。先ほどまでの重苦しい空気は、既にさっぱりと消え去っている。尾を引くような怨念の残り香が、鼻腔を擽った。多分、消滅してはいない。ここからいなくなっただけで、彼女はまた、どこかもいつかも解らぬ儘にうつしよを彷徨うのだろう。窓際で蝉が鳴いている。橙の光は、さっきよりも明確に、僕の部屋を照らし出していた。見えないものが見え、見えるべきものが見えない。うつろの世界、逢魔が時。僕には、人には見えないものが見える。



「随分、疲れた顔をしているね」
「……冷泉」
「和泉、君、隈が凄いけど、大丈夫?」
「まぁ…色々あって、ね」
「そ、倒れたりしないでね」



こつ、と、上品に靴音を鳴らして歩き去る生徒会長、もとい冷泉紫苑の背を見つめて、僕は小さく溜息をついた。あれから、あの女が僕の部屋に現れてから、そのまま睡眠欲に叶わずに眠ってしまい、気付いたら朝だったというオチだ。慌てて着替えて学校に来るも、案の定授業は遅刻。嗚呼もう、やってられない。憂鬱な気分を抱えながら、職員室から出て廊下を歩いていれば、出くわした件の生徒会長。一年時から生徒会長就任という伝説を作ったとんでもない奴…という認識は、無論僕にもあった。あまりにも他者と一線を画した、精巧すぎる容姿。名家の出らしく、優美な立ち振る舞い、英才教育の賜物らしい、優れた頭脳、そして、恵まれた運動神経と、他者を従える圧倒的支配センス。なんでこんな、普通の県立高校にいるのだと問いたくなるような、不可思議に"出来過ぎた"男。率直に言って、そう。気持ち悪い。

そこまで考えて、僕はふっと、その思考を霧散させた。下らない、今はそんなこと、どうだっていい。例え冷泉紫苑が、何だか妙に異常さを醸し出す男だとしても、所詮は他人。僕には何の関係もない。実はこの、絵に描いたような優等生の会長が、実際のところ、ただの不良というか鬼畜であるという事実を知っていようとも、僕には何の利益もない。"ここ"では、僕らに何の接点もないのだから。踵を返し、僕も自分のクラスへと向かう。数十分ほど遅刻した状態で、教室のドアを開ければ、呆れたような教師の溜息が、教室に吐き出された。



「…お前はまた遅刻か、和泉史貴」
「……」
「今月で何回目だ。全く、放課後、職員室に来い」



はて。また、と言われるほど、僕は遅刻していただろうか。自身の机までのんびり歩きながら、記憶を辿ってみれば、なるほど残念ながら、確かに僕はそろそろお咎めを喰らう程度の遅刻をしていた。今回は何だろうか、また資料運びか。授業を再開した教師の声が、まるで子守唄のように聞こえる。ゆうらり、ゆらり。気付いたら休み時間だったのは、多分、僕のせいじゃない。


罰則は案の定、資料運びだった。僕が見た目に反して力があるのを知っている教師は、容赦ない量の教材を僕の腕に抱えさせ、わざわざ四階の資料室へ行けと言う。あからさまに目の前で溜息をついて、そうして、ゆっくりと踵を返してやった。腕の中に山積みになった本が重たい。この学校の四階は、主に資料室と生徒会室、そして会議室など、普段使用する教室以外が固まっているため、何の会議もない日の放課後は静かなものだ。そうして僕は、その静寂が存外に気に入っている。煩わしい騒音も雑音もなく、平穏と呼ぶに相応しい。人気なく、眩しいほどの橙色が差し込む廊下に、僕の足音だけが響いた。




うふふ。




きん、と、思わず耳を塞ぎたくなるような、派手な耳鳴りがした。ぐわんぐわんと脳味噌を揺さ振るような感覚の中、確かに聞こえた女の笑い声に、思わず手にしていた教材を取り落す。誰の気配もなく、締め切られた教室ばかりが続く廊下。不自然なまでに、廊下を照らす、絵の具で塗りたくったような橙。痛いほどの静寂の中、僕が落とした教材が床にぶつかり、派手な音を立てて散らばる。廊下の奥は、外の橙との対比でどこまでも暗く、あるはずの階段さえも視認出来ない。


其処に、"それ"は居た。


恐らく旧制服であろう、黒いセーラー服を纏い、胸元ほどまで伸びた髪は乱れ、それの表情を覆い隠している。異様に青白い肌、ぴちゃりと滴る、鮮烈な赤。髪の隙間から見える真っ赤な唇は、おおよそ人が出来る範囲を超えて、大きく歪んでいた。足元の本を踏み付けるのも気にせず、ゆっくり、それへと向き直る。



「……」
「…僕に何か用、」



それは、僕の方へと向き直り、緩慢な動作で、右腕を伸ばす。どこまでも静かな静寂の中、それが禍々しいものだと理解していながら、僕はそこから一歩も動かなかった。裂けた女の唇が何度か動き、女のような、男のような、甲高いような、あるいはしわがれたような、混ざり混ざった滅茶苦茶の声が響く。



「オ、 前、モ  殺し テ  遣ル 」



許さない。
お前も、許さない。お前も、道連れにして、やる。



「……誰と、間違えてるんだか。嗚呼もう、本当、傍迷惑な霊だよ」



あるいは。此処を通る人間に、無差別にそう言っているのか。そういえば、昼休みに誰だったかが、そんな噂話をしていた気がする。夕暮れ時、誰もいない四階の廊下に、血塗れの女が現れる、と。どうやら噂は本当だったようだ。
髪を掻き揚げ、心底うざったく思う憂鬱を隠さずに、溜息を吐き出す。辺りは既に、元の廊下へと戻っていた。かちこちと時計が秒針を刻む音が聞こえる。下に散らばった大量の資料を拾い直して、再び僕は歩き出す。

背後から漂う、冷たい冷気。
廊下の奥、階段の端から、あの女が顔だけ覗かせ、窪んで血走った眼で笑っていたことなど、正面を向いていた僕は知らない。




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