春怪異譚
行きはよいよい、帰りはこわい



馬鹿みたいに走って、走って、ようやく辿り着いたもう一つの神社は、当たり前に真っ暗な空間を僕の前に曝し、重厚な空気を持って佇んでいる。嫌な空気は、神聖なはずの鳥居の奥から、隠せもせずに滲み出してきている。暗く、淀んだ鳥居の中を睨み付け、僕はゆっくりとその前に立った。嗚呼、くそ、ただでは入れてくれないだろうとは解っていたけれども、これは、想定外だ。まさに、「行きはよいよい、帰りはこわい」。入るのは容易いが、出るのは苦痛、本当に、嫌な怪異だ。神隠し。


「…全く。本当に、僕と、相性が悪過ぎるよ」


行けるか、この状態で。足手纏いの四人を連れて、戻って来られるのか。…多分、可能性は、限りなくゼロだ、僕はそんなに自分を過大評価しない。ただ、だからって、僕が人間関係によほど達観しているからって、彼らを見捨てる選択肢なんて、取れるわけがないだろう。特に、『神隠し』で持っていかれたら、なおさらだ、寝覚めが悪すぎる。最悪は、あまり使いたくない手ではあるが、僕だけ残って、彼らを逃がすか。考えても仕方のない問いが、脳内をぐるぐると回って、僕の判断力を鈍らせる。時間を確かめれば、まるで図ったかのように、長針が十二を指示し、かちりと三時に重なる。嗚呼、そう。いらっしゃい、ということか。随分な舐められ様に、思わず口角を引き攣らせながら、すでに先程までの悩みも綺麗さっぱり忘れて、何の躊躇いもなく、鳥居の中へと足を踏み出す。何だか、あの女、一発ぶん殴ってやらないと、気が済まない。すぐに暗くなる参道を、ゆっくりと踏みしめ、唯一視認出来る石畳を頼りに、先へと進む。多分、この先に、四人はいるだろう。そして、あの女もまた、恐らくそこにいる。永遠に続くと思われるような、終わりない参道も、その先があると解ってさえいれば、ただの体力消耗にしかならない。ほら、出口はすぐそこだ。
さぁ、終わらせようか、この厄介な怪異現象を。


「……随分、好き勝手してくれる」


視界の先で、倒れた南雲を跨ぐ、形の崩れた女の影。自分の中が、一周回って冷たく、冷えていくのがわかった。石畳を踏み締め、軽く地を蹴る。僅かの助走を付け、踏み切った身体を右に捻り、勢いをふんだんに載せた右脚を思い切り蹴り上げる。鈍い殴打音と共、老若男女どれともつかない、何重にも折り重なった悲鳴が響き、女の影が南雲の上から吹き飛ばされる。軽やかに地へと着地すれば、女に向け、親指を下へと突きつけて、全力で見下した視線を向けてやる。全身全霊、渾身の侮蔑を篭めれば、腹の底から冷えた声が溢れ出したのが解った。


「南雲から離れろ、この愚図が」


「い、和泉先輩……!!?」
「やべぇかっけえ…!!」


直接女を蹴り上げて、Fuck youのジェスチャーを全力で体現してやる。っていうか、あれって蹴れるんだ、なんて遠野が呟いた。僕は無条件で触れるということにおいて、時折特別であるかのように謳われるけれども、実際、あれらに触れるのはある意味簡単だ。多少の才能があり、霊感があり、そうして、彼らの存在を確実に認識すればいい。これは嘘だ、これは夢だ、などと逃げていれば、怪異には出遭えても、本当の意味で触れられはしない。僕はその、必要な認識を、無理矢理に備え付けられただけに過ぎない。地面に倒れ伏す南雲の身体を引っ張り上げ、慌てて駆け寄ってくる三人の方へと向き直れば、皇がへにゃりと、泣きそうに表情を歪めた。


「な、南雲さん…大丈夫なんですか!?」
「嗚呼…脈も呼吸もある、変な気配もしないからね」
「よ、よかったぁ…」
「和泉ん先輩も…無事で、よかった…あーびっくりしたぁー…」


大袈裟なまでに安堵の溜息をつき、身体の力を抜く皇の頭を軽く撫でる。くしゃり、と、柔らかな髪質が、手のひらで跳ねた。その隣で肩を落とす、遠野と九条の方へと視線をずらせば、二人とも気の抜けた表情で、小さく笑った。…と、いうか、僕が来たことで、三人ともすっかり安心しきっているが、僕はあの女を祓ったわけでも、追い払ったわけでもないということは、ちゃんと解っているのだろうか。ずるり、と、九条の背後で、女の黒く長い髪が蠢く。抱き抱えた南雲の身体を抱え直し、ぐ、と、地面を踏みしめる。


「……逃げるよ」
「へ…?」
「残念だけど、僕は霊能力者や超能力者の類じゃない。…ほら、来た」
「待って先輩!それ早く言って!お願い!もっと早く言って欲しかったなぁ…!?」
「うるさい遠野、走るよ」


崩れた顔を晒し、腕で地面を這いずり、こちらへと迫る女の様子は、どう控えめに言っても気持ちのいいものではない。一斉に悲鳴を上げた皇と九条だが、しかしきちんと自力で走っているのでよしとしよう。全力で地を蹴り、少しでも女と距離を取ろうとただひたすらに参道を駆け抜ける。思った通り、すでに僕が通ってきた入口は閉ざされ、延々と参道だけが続いている。さて、この状況をどうするか。逃走しながらでは、ろくに集中も出来ず、綻びを見つけることさえ困難だろう。気を失ったままの南雲を抱えていることもまた、ぎりぎりとなる要因の一つだ。嗚呼、まずい、このままでは、共倒れだ。一層の事、奴と相対して、叩き潰す僅かの可能性に賭けるか。巡る思考が瞬時に駆け巡り、何が最適かを超高速で審議し始める。頬を風が駆け抜けたのは、走りつつ、思考に没頭していた、その時だった。その風の正体が振り切った遠野の脚だと気付くのに、僅かの時間を要する。いつの間にか、僕の背後に迫っていたらしい女が蹴り飛ばされ、木々の合間へと吹き飛ばされている。



「……物理攻撃が効くってーんなら、話は早いよなぁ…?」



ゆら、と、強靭な蹴りを見舞わせた遠野が、口角を吊り上げて笑う。嗚呼、そうか、そうなのか。遠野は、『そういう人間』なのか。怪異を怪異と『認識』し、『納得』し、そういうものだと『肯定』する。だから、遠野は、触れる。触れられる、攻撃出来る。だから、今、蹴ることが『出来た』。

けれど、それはメリットばかりではない。怪異の存在を正しく『認識』するということは、怪異から受ける影響も常人に比べて、格段に跳ね上がってしまう。けれど、それを今言えば、『自分が怪異から影響を受ける』ということを『知って』しまう。多少でも軽減するには、それを『知らない』のが最善だ。だから僕は、言わない。言えない。



「先輩、行って、俺が囮になるから…その間に、帰り道、探して下さい。俺は大丈夫っすよ…後で絶対追いつくから、こいつらを。…頼みます」
「……十分だ。十分で出口を見つける、時間になったら戻って」
「…っはい!」


十分。それは多分、遠野があの女を相手に持つ限界で、そうして僕らが、あの女の目を完全に逃れて探索出来るぎりぎりだろう。無事でいなよと、遠野の肩を叩いて、互いに反対方向へと走り出す。いのちと命運を賭けた、最後のチキンレースが始まった。




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