酔っ払いカインさん
比較的甘い






とん、と、顔の横へと手をつかれ、壁際へと鮮やかな手つきで追い詰められる。後ろから抱きつくような体勢のせいで顔は見えなくとも、いつだって脳裏に焼きついて消えないうつくしいルビーの瞳が反射的に思い出され、どくりと心臓が大袈裟に脈打った。…これは、一体、何の状況か。扉越しに聞こえる喧騒は壁一枚隔てた場所で行われるパーティーの賑わいを否応無しに伝え、今この場の空気があまりにもその賑やかさに不釣り合いで、無意識に身体が強張る。
少し屈んでいるのか、頭上に彼の顎辺りが位置し、顔の横につかれた手袋越しの手のひらは大きく、背中に触れる体温は熱くて、何と問う言葉すら出てこない。靄がかったような喧騒と、自分の心臓の音が混じって、ますます脳内が混乱していく。


まず、彼は、自分が好いているカイン伯爵という男は、滅多にこんなことをしない。柔らかく抱きしめられることはあるが、それもどちらかと言えば恋人同士の愛撫ではなく、どこか親愛染みていて、だからこそ気軽に行えるものであった。

それが、今は。明確に、男と女になっている、それがわからないほど、梨花は幼くも鈍感でもない。髪に落とされたキス一つでさえ、挨拶に交わすものとは一線を画している。彼の吐く吐息を鼓膜が拾って、滲んだ甘さに睫毛が震えた。
不意、彼が身体を傾け、抱きすくめるように肩に顎を乗せれば、僅かばかりあった距離が完全に埋まってしまう。頬に触れた彼の髪に、その近さを実感して、心臓が跳ねた。けれど、その時、言い知れぬ違和感を感じる。いや、これは、まさか。


「……伯爵、酔って、る?」
「…酔ってないよ」
「嘘だ、絶対酔ってる…!」


がく、と、いきなり力が抜けた。顔が近づいてようやく気付いたアルコール臭、ワインの匂い。つまり、いつもと違う雰囲気は、ただの酔っ払い。脱力どころではない。トキメキを返して欲しいと思う反面、酔いのせいとわかってもどうにもうるさい心臓が収まらないのもまた事実で、そんな事実に胸中で少しだけ苦笑する。


「伯爵、飲み過ぎ…」
「大丈夫…」
「大丈夫じゃない…と、思う」


理由がわかれば、多少の余裕も出てくる。飲み過ぎだと苦言を漏らすも、アルコールの回った彼には今ひとつ届いていないようだった。まぁ仕方ないかとため息をつけば、普段より些か強引な動作で腕を引かれ、体勢を反転させられる。その瞬間、記憶にあるより、どろりとした濃密の、蜂蜜のようなとごりを宿した赤の瞳にまっすぐに見つめられて、ほとんど条件反射のように息を飲んだ。

これは誰だと思うほどに、そう、瞳の色合いが全く違っていた。目付きと言ってもいい。常の優しい穏やかさはなりを潜め、底光りしているようにさえ錯覚するほどに、どこか危険な色だった。薄く開いた唇から漂う酒香など、もう感じる余裕がなくなる。ぞくりと、何かが背筋を撫でた気がした。


「、リンカ、」


酒のせいか、掠れた低音が鼓膜を打つ。艶を帯びた瞳といい、声音といい、それは、まだ成熟し切らない、少女の域を抜けきれない、17歳の梨花には、少々酷すぎた。少女にぶつけるには、少しばかり行き過ぎた色だった。


「…は、く、爵…無理……あの、ちょっと、無理」


声音はともかく、もう目を見ていられなくなって、視線を逸らす。梨花にとって、同年代の男はともかく、これほど歳の離れた男性はさすがに免疫のない存在だった。少しでも距離を取ろうと胸元を押し返すも、触れた服越しに成熟した身体を感じ、訳もない羞恥心が湧き上がってどうしようもない。普段、触れ合っても、何ともないのが嘘みたいだ。月明かりだけが光源の薄暗い部屋の中、彼の赤い瞳だけが浮かび上がっているようで。カインの背後に位置する月、存在する色合いは、金と赤、そのコントラストはどこか夢想染みている。パーティの喧騒は遠く、現実から切り取られた箱庭の中は、二人きりの空間だった。
柔らかな微笑みを隠し、ただ自分を見つめるカインの整った顔立ちを、直視出来ない。指先が顎をすくい、顔を上げ切る前に双方の唇が重なる。触れた唇が熱いのは、多分酒のせいなのだろう。アルコールの味がするキスは、カインにしては珍しいほど長く続く。もはや抵抗する気力さえ奪われ、いや、拒む気はないのだが、如何せん今の彼は、ちょっと困った酔い方をしているらしい。現実逃避を始めた脳内で、彼が酒を飲んだらとりあえず近づくのは止めようなどとぼんやり思う。自分の精神衛生上、非常によろしくないと判断した。
緊張も一周回って、嫌に冷静になってくる。相も変わらず心臓はうるさいが、その音が認識出来る程度には、落ち着いた。

焦点さえぶれるような、近しい距離の中。閉じられた瞼がゆっくり持ち上がり、けぶる睫毛が繊細に揺れた。絡み合う視線は先ほどより強固で、逸らすことを許さない無音の威圧がある。酒気を移されたのか、ぼんやりとしてくる脳内で、艶やかな髪の流れる後頭部へと腕を伸ばし、強く抱き寄せる。少し驚いたように見開いた赤の目に小さな笑気を零して、舌先で唇をなぞれば、緩く瞬いた瞳に愉悦染みた光が宿ったのを認めた。


雲に月が隠され、赤だけが密やかに艶めく。飽くことなく繰り返しキスの合間、落とすように笑気を零して、語らう愛の代わり、指先を静かに絡めた。


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