お互いの言語が通じない話







ゆっくりと、足音を忍ばせて背後から忍び寄る。書類に没頭しているのはいつものことだが、どうも今日はそれだけでなく、うつらうつらと転寝をしているらしい。いくら今日が気候のいい日であれ、こんな姿は滅多に見られない。何と無く、貴重なものを見た気がして、無意識に口角が上がる。そっと背後に立てば、なるべく息を殺して腕を伸ばし、背中まで流れる黒髪をすくう。柔らかな感触に小さく息を吐き、当初の目的を果たすべく、カインが起きないように慎重に、すくった髪を緩く動かし始めた。

しばらくして、満足いくまでぬばたまの髪を弄れば、よし、と小さく呟いて指先を離す。我ながら会心の出来だ、何て一人ほくそ笑んでいれば、固く閉じられていた瞼が微かに震え、睫毛が揺れる。あ、と、思ったときには既に遅く、ゆっくりと開かれた透明な赤が、眠気を引き摺った気怠さを孕み、呆と梨花を見詰める。
近しい距離に、状況が掴めず瞬きを繰り返し、寝起きのせいか掠れた声音が滑り落ちた。


「Che cosa stai facendo ?」


何してるの?
流暢に流れ出す言葉は、しかしイタリア語で、日本人である梨花には通じない。けれどそんなことは些事というように、小さく笑った梨花が、ついとカインの後ろ髪を指差した。
首を傾げつつ後ろを振り返ってみれば、ゆらり、揺れる三つ編み。きょとりと赤い瞳が瞬いた。


「三つ編み、」
「ミツアミ?……Treccia ?」
「……とれ、ッチャ…?」
「Si.Treccia.」


繰り返すイタリア語と日本語。挨拶一つ互いに理解できない状態から始まり、一つひとつを飽きるほどに繰り返して、赤ん坊が言語を覚えるように、繰り返しの中で学ぶ。
「おはよう」「Buon giorno」
「ありがとう」「Grazie」
気持ち一つ満足に言い合えず、伝えきれず、理解できず、それでもそんな障害は、決して小さくはない障害は、大した意味を為さなかった。
声がなくとも、腕があり、指があり、足があり、吐息があり、舌があり、瞳がある。
梨花が結えた三つ編みを指先で弄び、落とすような呼気を逃して、密やかな笑みを浮かべる。

突然どうしたの、と、笑気交じりに問い掛ける言葉の意味が梨花に通じなくとも、ちゃんと休んでね、と、気遣わしげに梨花がかける言葉の意味がカインに通じなくても。



「Vieni.」


おいで。
柔らかな声音で呼ぶイタリア語は、何度も繰り返し使うせいか、既に梨花にとっては耳に馴染んだもので、おおよその意味は自然と理解している。
立ち上がって歩いていくカインの広い背を追いかけて歩きながら、自分より大分高い位置で揺れている三つ編みを見詰め、唇に笑みを刻んだ。

彼の言葉を、理解したくはある。言葉を交わしたくはある。けれど、声のないこの関係も、決して悪くはなかった。
指先で唇をなぞることで、伝わる思いも、ある。瞬き一つで、理解できることも、ある。
もちろん不便は大きい、快適ではない、じれったいことなんて数え切れないほどだ。だけどそんな焦燥さえ、眠ったような甘さに囚われるこれが、恋なのかもしれない。


揺れるマントを掴めば、振り返ってくれる優しげな面持ちに、心臓が高鳴る。何でもないと柔く笑い、並んで歩くだけの廊下が心地好くて、またちぐはぐな、通じないイタリア語と日本語の会話を交わす。
どこかで、楽しげに小鳥が鳴いた。






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