遊郭パロディ
ほのぼの甘い…くない、なんか湿度しかない
性行為を匂わす表現有り
梨花が遊女でカインさんがお客
時代背景云々細かいことは気にしたら負け
新月の夜だけやってくる人がいる。その人はいつも、上等な夜の気配と、閑散とした静寂とを引き連れて、梨花の視界を薄く霞ませに来るのだ。その人の指先が自分の素肌に触れるとき、梨花はいつも、閉じた瞼の裏側に、どうしようもなく広い海の色を見る。それは多分、彼が異国の人間だからだろう。白磁の指先と、喉奥で蜜の絡まったような声音が、肩から脚へと滑るそれに、その人の色は凝縮されているとぼんやりと考える。彼の目は飴玉のような色をしていた。年下の、それも遊女などに触れることを許したその人は、緩やかに飴玉の瞳を細めて、密やかな睦言を舌先で転がす。月のない夜はいつも世界に光が足りなくて、互いのかんばせを知るには昼どころか月夜以上に距離を殺さねばならなかったけれど、二人はその無為な距離こそを愛した。彼が梨花を買ったその日、梨花は新月が好きになった。
最早幾度目かの新月の夜か、数えるのも梨花が放棄した頃、朔の日、やはりその男は静穏を引き連れて訪れる。彼はいつも、梨花が気を失わない程度の力でしか身体を交えなかったから、空が白むまで、温い体温を保つ腕の中で、ゆっくりと意識の微睡む感覚を愉しんだ。指先が梨花の髪をゆうたりと梳き、時折、気まぐれに口づける。彼は動作の細部まで気品めいて、それがますます遊郭の一室に似合わなく、その似合わなさが故に、変に噛み合うような、そんな奇妙な男だった。いつも彼の周囲だけが背後の景色から浮いていて、喧騒は揃って眠ってしまう。零した視線に触れた先から、堪らず瞼を落とされるのだ。それはこの街に蔓延する不穏な薬にも似ていたし、また、晩酌に漂う酩酊の気配にも酷似して、梨花の感覚を引きつけて止まなかった。緩やかに身体に浸透するくせ、長くは留まらず、気付けば朝焼けと共に霧散していってしまう。
彼は自分の視線がうつくしいということを知らないようだった。そして多分、ここに集まる遊女の誰も、そんなことは知らない。梨花はとても、贅沢をした気分だった。上等な男に通って貰えることに、ではない。うつくしい視線が、一晩だけ、自分だけのものになる、そのあっけない時間こそを、愛したのだ。なにせ彼は、彼自身を愛するには、あまりに世界が違い過ぎた。自分を守る術を知っていた梨花は、男自身を愛さなかった。胸の内に燻る焦燥に身を任せれば、あっという間に焼き殺されて、煙に視界を覆われてしまう。それを梨花はよしとしなかった。自分をどこまでも甘やかし、抱きすくめる腕があると知りながら、一人で立ち続けられるほど、梨花は強い女ではなかったのだ。けれど、自分が強い女でないと知っているからこそ、そこで立ち続ける選択を取ることが出来る、矜恃のある女だった。その矜恃が自分をさらに魅力的に魅せるということを、梨花は知っていた。
梨花はうつくしい女だったし、自分がうつくしいということをよく知り、その使い方を、よく心得ている女でもあった。どこまでの媚が男に気づかれにくく、どこからの媚が男が嫌うのかも、よく知っていた。だから当然、彼に対しても上手く媚を使ったけれど、こうして腕の中で身体を預けているときだけは、眠ったふりをして、自分を作ることから逃げ出した。彼は梨花が起きていることを知って、黙って髪を弄ぶ。時には指先で頬を撫でて、唇をなぞって、瞼に口づけて、笑気で濡らして、わざと梨花を起こそうとする。駆け引きの仮面を被った戯れが、梨花はとても好きだった。有体に言えば、彼が好きだった。
濡らされた吐息で目を覚ました振りをした梨花は、ふと、目の前に差し出される何かに、きょとりと瞳を瞬く。月明かりのない部屋で、それは暗い影のようなものにしか見えなかったけど、それが何かはすぐに見当が付いた。簪。それも、派手なだけの安っぽいものでは決してなく、一目で上物と解る漆喰の作りをしている。君にあげる、と、彼は言った。乱れた着物の合間から覗く白い肌が簪の漆喰とどこまでも対照的で、その鮮烈な色彩に、梨花は眩暈がした。触れた簪が揺らされ凛と鳴くその音色はほとんど音のない劣情と憐憫の詰まったこの部屋に飽和して響いて、鼓膜を大袈裟に揺さぶることを楽しむ。
その簪は、鋭利な先端で、夜を揺さぶる音色で、梨花の逃げ道を貫いた。髪を撫ぜる手のひらは梨花の弱さを残らず掬い上げ、そうして、緩やかに突き落とした。彼は知っている。梨花の弱さも欺瞞も矜持も傲慢も媚態も、知って、言葉を紡ぐ唇を塞いだ。彼は駆け引きが上手かった。髪を梳く指先が、腰に回す腕が、落とす声音が、全てが梨花に絡みついて、逃げ出す力を殺した。梨花はもう、認めざるを得なかった。赤い苺の飴玉を思わす濡れた瞳が何の感情を劣情に混ぜているかを彼女はとっくに知っていたし、自分の瞳が孕む媚を作り出す元凶にも、もう見て見ぬ振りは許されなくなってしまった。狡い、と、梨花は泣いた。貴方、狡いわと、睫毛に雫を乗せて振るわせれば、着物に染みを作るその水分に色を付ける恋情が喉の奥から込み上がって、嗚咽交じりに白い胸元を小さな拳で叩く。触れた陶器の肌に一つ二つと落ちる水滴に彼は酸素を取り込んで、一緒に吸い込んだ梨花の恋情で喉を潤す。吸い込まれた恋情は男の喉で劣情に変換され、口移しで返還される。からからに渇いた喉を互いに濡らせば、もう梨花は泣くのを止めた。空が白む。白く霞んだ静寂がほんの僅かに陰影を作り出すこの顔が、きっと一番、うつくしい。
彼はまた新月にやってくる。噎せ返るような夜の気配と幾重にも折り重なった静穏を連れて、梨花の矜恃を壊しにやってくる。貴方は駄目な女がすきなの、なんて問いかければ、彼は曖昧に笑った。
遊女は愛した客に誠意を示すため、時にはその身体に刺青を施す事もあるらしい。同じ苦境の世を生きる遊女が語るそれを現実味なく捉えながら、梨花は手元の簪へと視線を落とした。私を想ってくれるなら、せめて、新月の夜だけでもいい。この簪を付けていて。睦言交じりの彼の言葉を思い出し、彼が去って行った大門の方を見つめながら、昇りかける朝日に瞳を細めた。滑り落ちる甘い声が自分の身体に絡みついて、食い込んで、よほどそれは刺青のような痛みだった。この簪は、髪に差すたび、梨花を蝕む刺青なのだ。本物の刺青なんて入れてしまったら、劣情に溺れて、息も出来なくなってしまう気がした。