カインさんが吸血病






雨足が強く窓を打ち付け、悲鳴めいた音を奏でる。激しく吹き付ける風の隙間から、雷鳴の轟きさえ聞こえてくるようだ。嗚呼、どうも今夜は、嵐らしい。少しだけ隙間を開いたカーテンを早々に閉じ、カインは重い溜息を吐いた。誰もがそうだろうが、こんな天気の夜は、あまり気分が晴れない。淀んだ暗雲の立ちこめる夜空を思い出し、再度呼気を吐く。嫌な、夜だった。どくと脈打つ心臓は常と僅かにテンポがずれていて、如何にも嫌な感覚ばかり呼び覚ます。もう、今日は寝てしまおう。何か嫌な、胸騒ぎがした気がした。
窓枠から手を離し、ベッドへと歩を進める。風のうねりは更に強まり、雷鳴が響く。壁に寄って手をついた、その瞬間。眩い閃光が、カーテンの隙間を突き抜けて、瞼を貫いた。寸分遅れ、鼓膜に叩き付けるような轟音が響く。嗚呼、雷が落ちたの、近い、どこだ。なんて、冷静に考える自分と裏腹に、心臓が不自然に高鳴り、脳髄が痺れていく。何だ、いきなり、これは何だ。別に雷に怯えるような弱点は無い、なのに、何故。は、と、浅い呼気を吐き出して、背中を壁へと預ける。不可思議な動機の正体は、次の雷鳴が轟いた瞬間に、否応がでも知ることとなる。


「っ、…!?」


どくん、と、一層大きく、心の臓が脈打った。同時に、急激に渇いていく喉と舌が干上がっていくような心地に襲われ、思わず喉元を押さえる。必死に唾液を飲み込もうとするも、渇いた咥内ではそれさえ滑稽な足掻きとなり、返って渇きを助長させたかのようだった。条件反射で開いた唇から浅い呼吸音が漏れ、だらりと舌が垂れ下がる。呼吸もままならず、ただ必死に酸素を取り込む。
嗚呼、これ、これは。この衝動の名を、カインは知っている。

吸血病。
人間の血潮を求める忌まわしい病気だ、こうして不定期に発作とも衝動とも呼べる欲求が溢れて、その度にたまらなくなる。血が、欲しい。柔い肌に歯牙を突き立てて、生温い鉄錆の馨に酔い痴れて、存分に啜って舌先で味わって、この狂いそうな喉の渇きを癒したい。そんな暴虐的な欲求に飲まれそうになる。苦しい、喉が熱い、呼吸も出来ない、前すら見えない、血が欲しい、血が、血が欲しい。

違う、違う、いらない、欲しい、血なんかいらない、吸いたくない、吸いたい、欲しい、違う、血、イラナイ、ホシイ、イラナイ……!!

荒くなった呼吸は、最早息切れでもしたかのように早い。ずるずると壁伝いに床に座り込んで、胸元を掻き毟るようにして必死に衝動を耐え忍んだ。この発作に任せてしまえば、自分は人間でなくなってしまうような気すらして、それを思えば、こうして耐える程度、何でもない気がした。熱くなった吐息を吐き出し、発作が落ち着くのをただ待ち忍ぶ。頼むから、今は、誰も此処に来ないで欲しかった。今誰かの近くに寄れば、耐え切れずに歯牙を穿とうと襲い掛かってしまわない保障はない。今は夜中だ、大丈夫、きっと、誰も、来ない。そんなカインの淡い期待も虚しく、過敏になった神経が、扉の軋む音が鼓膜を微細に揺らしたのを捉えてしまった。嗚呼、それも。よりにもよって、多分一番、こんな姿を見られたくなかった相手に、見られてしまった。


「伯爵…?、…は、く、しゃ…」


普段はあまり表情の変わらない梨花の瞳が、驚きで大きく見開かれた。扉を開いた先、時折差し込む閃光でしか見えない室内だけれど、状況を視認するには十分だった。脚以外の部位を床につけるなど、普段ならば"ありえない"人が、何故か苦しげに、倒れ込みでもしたように座り込んでいる。何故、どうして、一体何が。混乱し、そのままの体勢でしばし固まるも、カインが苦しげに、前屈みに身体を傾けたことで、弾かれたように飛び出す。勢いで仕舞った扉が、背後で物々しい音を立てていた。


「伯爵…っ!!」
「っ…リン、カ…」
「伯爵、しっかりして、苦しいの?息、出来る…?私が、見える?」
「大丈夫、だから、少し…っ、私から、離れて、」
「っ、い、やよ…!」


駄目だ、と、頭のどこか冷静な部分が叫ぶ。風呂上りの髪の、柔らかな匂い、カインの好きな匂い、それが脳髄を麻痺させていく。身体が自分のものではない気がして、胸中で獰猛な何かが、鎌首を擡げた。飢えた獣のように荒い吐息が、先程以上に強くなった喉の渇きが、早くなった心臓の鼓動が、何もかもがカインを追い詰める、正常な思考を鈍らせる。過敏になった舌先が自分の歯牙を掠めて、その尖りを無意識に確かめた。
過呼吸でも起こしているのだと勘違いした梨花が正面から抱きつくようにして、背を撫でる体勢でいたのも悪かった。目の前に曝け出された首筋に、白い肌に、薄らと見える青い血筋。嗚呼、視界が眩む。気力一つで必死に繋いでいた理性のようなものが、糸を切ったように、あっさり弾ける音がした。


「、え……、」


ぬる、と、首筋に伝う、生温い感触は何だろう。自分を抱き締める、暖かくて力強い感覚は、何だろう。状況が理解できず、梨花はただ瞳を瞬いた。背中に回った腕は、あれ、これは誰だ。抱擁というより、押さえつける、ような、そんな荒さ。
カインが梨花の身体を抱き寄せ、そして、首筋へと顔を埋めている。ぬるついた感触は彼の舌だ。熱くなった呼気が直接肌に落ち、ぞくと背筋を撫でられたような感覚に襲われる。撫ぜる舌が熱くて、頬に熱が集まる。本当に、彼は、どうしたのだろうか。いつもと違う、なんて、思った時には既に遅かった。肌に押し付けられた歯牙が薄いそこに食い込んで、ぶつ、と、血潮が決壊する音が脳裏に響く。遅れてやってきた鋭利な痛みに、引き攣った悲鳴が零れた。思い切り噛み千切られたのではないから、絶叫とまではいかないが、ゆっくりと歯が肉を切り裂く感覚が返って生々しく感じられた。痛みに集中出来ないせいで、彼が溢れた血潮を啜る所作にまで意識が回り、余計に混乱が激しくなる。いよいよ激しく叩きつけるようになってきた雨脚が締め切られた硝子を叩いて、時折光る雷光も派手になる。暗い室内を明るく照らした閃光で、改めて状況を視認して、梨花が僅か震えた唇を開いた。


「…は、く、しゃく…なんで…」
「……、っ、」


その声に、沈んでいた歯牙が浮き上がる。溶け落ちていた思考が一気に引き戻され、血濡れた口元もそのままに、カインがばっと顔を上げた。自分自身に驚いたかのように、透明な赤の瞳は軽く見開かれ、少しばかり慌てて、手の甲で口元を拭う。それでも、どうしたって、赤く汚れた白い肌と、拭い切れなかった血潮がこびり付く唇から吐き出される呼気が鉄錆の香りに染まるのはどうにも隠せなくて、梨花がへたり込むように、床へと座り込む。赤く染まった首筋には生々しい噛み跡が刻まれ、それは否応が無しにカインの視界を占めていた。耐え切れず、そのままの体勢で、梨花から視線を逸らす。血の温さに染まった呼吸が、さらに喉を疼かせる。茫然とカインを見つめていた梨花が、恐る恐る自分の首元へと手を伸ばした。ぬるついた感触を手の平に感じ、びくりと大袈裟に肩を震わせる。血濡れた自分の手を見つめ、そうして再び、カインへと視線を戻した。赤く染まった腕が伸ばされ、マントの端を掴む。じわ、と、血液が染み込むことすら、最早どちらの頭にも無かったことだった。


「…伯爵、…」


掠れた声で、常の呼称を囁くように音に乗せた。何が起こったのか解らない、解ろうとすればするほど、混乱していくばかりだ。けれど、だから、だからこそ、梨花は腕を伸ばした。解らないなら、解らないで、それでいい。今大事なのは、目の前で苦しんでいる、この愛しい人だ。動くたび軋む首の痛みに歯を食いしばって耐え、弱い力で彼の頭部を抱き寄せる。先ほどのように、その顔を首筋に押し当てて、乱れた呼吸を必死に整えた。


「…っ、離れ、」
「嫌よ…っ、嫌、何が何だか、全然、解らないけど…でも、今、貴方に何が必要か、解ったから…」
「………、……ごめん、…リンカ、……ごめん」



くらくらする血潮の香りに、最早払いのける気力さえ削がれていく。力無く身体を寄せ、再度傷口へと唇を寄せた。罪悪感の中、なるべく痛くないように、痛みを軽減出来るように、出来る限りの配慮をして歯牙を沈める。濃密な鉄錆の香りが、今ばかりは薔薇の芳香すら敵わぬ極上の香だった。もう少し、まだいける、駄目だ、もう止めなければ。ぼんやりと濁った思考回路に様々の感情と理性が浮かんで、混ざり合って消えていく。もう少し、もう少しと血潮を啜って、どれほど時間が経っただろうか。少なくとも、嵐が少し、遠ざかった頃、ようやく自然に口を離せば、視界に広がる無惨な赤。飲み込み切れなかった血潮が、梨花の蒼白の肌を彩っている。何と声を掛けたらいいのか、いや、そもそも、言えるべき言葉があるのか。荒い心拍の名残を残す心臓の音が鼓膜に響くのを聞きながら、ただ呼吸を繰り返す。ふ、と、貧血を起こしかけ、ぐったりとしていた梨花が薄ら瞼を持ち上げ、柔らかくカインの頭を撫でる。無理矢理に浮かべた笑みで、震える唇を開いて、努めて明るい声を吐き出す。


「…だ、いじょうぶよ、…わたしは、だいじょうぶ、」


大丈夫じゃないだろう、そんな声で、そんな身体で。
大丈夫よと繰り返す梨花の肩に頭を預け、結局、口から零れたのは、幾分か穏やかに落ち着いた、薄らいだ鉄錆の香りのする、温い呼気だけだった。
嵐は遠ざかり、雲間から月光が、僅かに射し込む。朝まではまだ遠く、きっと、誰もが起きる気配もないのだろう。






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