赤い月は不吉の前兆であるらしい。そんな話をサークルの先輩から聞いた。
燻ぶったようなその赤は確かに不思議な色合いを宿していて、普段お眼にかかれないその異質さ、不気味さから、不吉の前兆などと呼ばれるのも致し方ないことではないかとさえ認めてしまう。
本格的な冬の訪れが近付く中、早足で歩を進める路地の地面へと影を落とすその月は、あまり見ない赤だった。
常の金色と違い不気味に色を落とすその月を何となしに見上げながら、早瀬湊は足を動かす。不吉の前兆か。つい数十分ほど前に聞いた科白を思い出しつつ、しかし吹き抜ける北風の前には、そんな情報はどうでもよいことで。
早足で路地を抜ける。そうして、いつものように、家へと帰る。


はずだった。




「ねェ、オニーサン。オニーサンの目玉、チョーダイ?」


高い、甘い声が静寂を突き破って、どこまでも愉しげに湊の鼓膜を揺らした。
自分以外の気配などなかったはずのその空間に突如として響いたその声音に、大袈裟なまでに肩を揺らして振り返る。
それも、科白が科白だ。


目玉、チョーダイ


その声は確かにそう言った。
日常生活においておおよそ聴くことが無いであろう台詞に、一瞬、理解が追いつかない。
暗い地面を彷徨った視線がようやく意識を取り戻し、声の発信源へと向けられれば、いつの間にか赤から本来の金色へと戻ろうとする月を背景に、団地の壁へと腰掛ける一人の少年の姿を認めた。
最初に目に付いたのは、緩やかに弧を描く形のよい唇。さらと夜風に靡く髪は男にしては長く、組まれた脚がぶらぶらと揺れている。
驚くことに、彼は幼い少年のようにも見えたのだ。
それこそ、背後の月の如く、赤から黄へと転ずように。少年から青年へと、変わる途中のようであった。
たゆたう視線が湊に向けられる。ゆると緩めた視線が、笑った。片目は髪に隠れて、よく見えない。


「眼球。チョーダイよ、オニーサン」


再度、繰り返される言葉。ひらと彼が脚を解き、頭上から降ってくる。凪いだ髪が彼の肩に落ちる。
どうしたものかと反応に困り、また、飲み会帰りということで、彼の発言に対し物騒だと逃げる選択肢もなく。
ぼうと突っ立ったままでいれば、暗い視界の中。きらと煌めく何かが、月の光に煌めいて視認できる。なんだろうと、思っていれば、唐突に、極近くで風を切る音が聞こえた。
それは一閃。気付いたのは、眼前の少年が、いつの間にか右手に握るナイフを、振り切った後。
確実に眼球を狙ったそれを、避けられたのは一重に、奇跡でも何でもなく、ただ偶然という神の戯れ事があったからに過ぎないのだろう。
それほどにしなやかで、それでいて自然すぎる動きだった。
躓いただけ。彼が獲物振り切る、その前に。湊は石に躓いて、転んだに過ぎないのだ。
派手に倒れるその身体に対し、こけたとの認識もまた遅く、気付けば鈍い痛みが走って、そうして遠のく意識。
きょとんとするその少年の幼い顔を横目に、湊は意識を手放した。



何が何だかわからない、そんな出会い。
とにもかくも、これで物語は始まった。