誰よりも清廉で、高潔で、鮮烈だったあの彼女がいなくなって、どれだけの月日が流れただろうか。たった数日だったような気もするし、また、数年だったような気もする。アベルとして剣の稽古をしていても、カインとして歩いても、張り合いのある試合が出来る彼女がいない、主と呼んで着いてくる彼女がいない。嗚呼、世界はこんなにも平坦で静かなものだっただろうか。揺れる金髪を見ると、嫌でも視線が吸い寄せられる、そして彼女ではないかと一抹の期待をして、そしてやはり違うとため息をつく、その繰り返しだ。


「……リヴァン…」


何だ、アベル。
はい、何でしょうか主様。

今まで当たり前のように帰ってきていた言葉、それがもう、ない。もう彼女は、いない。思い出すのは、あの日、自分の元にも来て、婚姻を告げた奇妙なまでに造形の整った異国の男。そして、見慣れないドレスを身に纏い、別れを告げたリヴァンの姿。どちらも、忘れられるはずがない。いつまでも自分に着いてくると、生涯お守りしますと、一方的にだが誓った彼女の姿を瞼の裏に追走する。あの言葉を、自分はただただ、無条件に、永久に続くのだと、そんな温い幻想を見ていた。そうだ、自分は一体、どんなに甘い夢を見ていたんだ。いくら彼女が、戦場では負けなしとも言えるほどに強くとも、ただただ忠義のためだけに生きるような高潔の騎士であっても、彼女は、女だったじゃないか。柔い身体に、子を為す器官を有した、男とは絶対的に違う存在。

リヴァンは、女だ。リヴァンが異端だったのだ、女でありながら鎧を身に纏い、戦場を駆け抜けるような、そんな彼女が異端で、普通の女は、美しいドレスを着て、宝石で着飾って、そしてやがて、いい男の元へと嫁いで、そして子を為し、母となる。いくらカインの中で、どれほどその、世間一般の女性像がリヴァンに当て嵌まらずとも、現実としてリヴァン・アルバーニという一人の騎士の性別はまごうことなき女性で、そして女性である以上、男の元へ嫁ぐのが妥当なのだろう。こんな世の中で、こんな堅苦しい世界だ、望まぬ男の元へと、拒否権も無しに嫁がされることが当たり前にある中、好いた男と結ばれることが出来たのだろう彼女は、祝福されてしかるべきで、それが例え異国の人間であっても、喜ばしいことのはずなのだ。

それなのに、何だろう、この妙な胸騒ぎは。


彼女がいなくなって、寂しい?
当然だ、今までずっと、三日と空けずに姿を見ていた友で、そして不本意ながら従者、否、護衛の騎士だったのだ。前者はともかく、後者は全くもって不本意だが、纏めれば仲の良かった彼女と会えなくなって、寂しいに決まっている。

でも違う、違うのだ、これは。確かに自分は、彼女が、リヴァンが好きだった。けれど彼女とどうこうなろうという想いは、今まで全くと言っていいほどになかったし、彼女が傍にいてくれるのなら、友として信頼の感情を抱いてくれるのなら、それでいいと思っていた。だからあの時だって、彼女と最後に別れたあの日だって、リヴァンが幸せならばそれでいいと、その幸せを壊す真似などしないと、そう自分に区切りをつけたはずなのに、今になってこんな得体の知れぬ気持ちの悪さに囚われるだなんて、そんなのはどうかしている。親しい友を取られた寂しさでも、また、好いた女を奪われた憤りでも、家族と離れた寂寥でもない、思いつく限り説明のつく様々の可能性を考えてみても、どれもこれも当て嵌まらない。何なんだ、この、得体の知れない感覚は。






「ねぇ、聞いた?」
「嗚呼、あれでしょう、東洋の一族の噂」
「とてもお綺麗だそうね」
「わたくしそのお方を拝見致しましてよ、噂通り…いいえ、噂以上の、寒気のするようなお美しさでしたわ」
「あら羨ましいこと…でも、お顔色が優れませんわね」
「……貴女方、あの一族の他のお噂、ご存じ?」



通りがかったフロアで、ご婦人方の暇つぶしの会話が聞こえる。普段はこのような会話、さして気に留めることもなく、嗚呼またよくある噂話かと、苦笑交じりに通り過ぎるだけだった。けれど、今に限っては、少しばかり事情が違う。カインがふと足を止めたのは、その会話の中に、「東洋の一族」「寒気のするようなお美しさ」というワードが入っていたからだ。この二つに、カインは心当たりがある。そしてその男は、現在カインが考え込んでいる、悩みの種なのだ。思わず、彼女達には見えぬ位置で歩みを止め、じっと、彼らの会話に耳を傾ける。所謂盗み聞きとも言える行為であるが、そんなこと、今は構うものか。大きなフロアで、廊下にも簡単に聞こえるような大きな声で話している方にも非はあるのだと胸中で言い訳がましく理屈を並び立て、聞き逃さないようにと息を潜める。他の噂、とは、一体何なのか。そして噂になるほどの一族とは、そして、あの男は、一体。どんな一族の、人間なのだろう。








「嗚呼…知っているわ、あの不気味な噂でしょう?」
「そうそう、お気に入りの女の子を閉じ込めて、愛玩人形にしてしまうとか」
「あら、わたくしが聞いたのは、とんでもないご当主絶対主義だそうよ」
「わたくしも聞いたわ、あそこのお家、とても由緒正しいけれど、近親相姦のお家柄なのでしょう?」
「ま、野蛮だこと」
「そうよね、あの紫の瞳、とても不気味だわ」



愛玩人形、当主絶対主義、近親相姦。物騒な単語ばかりが、次々と彼女達の口から零れ落ちる。ケチで有名なあの嫌われ者の一家相手でも、近親相姦だなんてそんな侮蔑はそうそう飛び出さないだろう。東洋の人間が相手ということで、嘲りが強まっているのか、それとも。近親相姦だなんて現実味を欠いた単語に、信憑性を持たせるほどに。不気味なあの、造形のせいか。




「あら、そういえばわたしく聞きましてよ」
「何をですの?」
「例のあのご一家、先日ご当主様がこちらにいらっしゃったでしょう?その折に、何でもどこぞの貴族の娘をお見初めになって、半ば強引に連れ帰られたとか」
「まぁ!」
「ロマンスねぇ、確かにきな臭い噂の尽きぬ一族ですけれど、あの様なおうつくしい方に見初められてご結婚だなんて、女の夢ですわね」
「何せあちらは東洋の権力者ですもの、噂では、その国では神の様に崇められていらっしゃるとか」
「年老いた貴族の後妻に収まるくらいなら、わたくしはそちらに行きたいですわぁ」

「あら皆様、先ほどの噂をお忘れ?」
「ええ?」
「お気に入りの女の子は閉じ込めて愛玩人形に……その姫君、何でも光の届かぬ暗いお部屋の中で、鳥籠に飼われて愛でられているとか」
「きゃあ嫌だ!恐ろしいこと!」



ごくん、と、やけに大きく、自分の喉が鳴った気がした。解っている、こんなのはただの、くだらない噂話だ。外国へと言った貴族に着いて回る恒例行事だ。先日もバードン卿が東洋に行って、帰ってきたと思えばすぐ、やれ東洋での一晩の恋やら、黒髪の美しい東洋人の姫を連れ帰っただの、散々噂されていたじゃないか。そして結局、本当に連れ帰ってきていたのは、確かに黒髪の美しい東洋生まれの美人ではあったが、ただの猫だったはずだ。それと同じだ、ただ、きな臭い噂の付き纏う東洋の一族だから、それがこんなになってしまっただけ、そう、頭では冷静に弾き出すというのに、喉がからからに乾いて、息がひゅうと鳴く。

冷泉、閑。確かあの男は、そう名乗っていた。踵を返し、屋敷へと足を急がせる。あんなものはただの噂だと、くだらないと一蹴するには、カインにとってリヴァンは、軽い存在感ではなかった。出迎える使用人の中、挨拶をしつつ、様々な用を言いつける執事だけに小さく耳打ちし、部屋へと戻る。程なくして、紅茶を手に、どうかなさいましたかと入室する執事へと、先程、手頃な紙に殴り書いた情報を見せ、口を開く。



「……東洋の一族、冷泉家。前に当主がここに来ている、私が間違えていなければ、その際にリヴァン・アルバーニという女性を見初め、妻に迎えている。当主の名前は閑……情報が、欲しい、どんな些細なことでも構わない」
「……畏まりました」





向こうの様子を知って、安心して、やっぱりくだらない噂だった、嗚呼ご婦人方に振り回された、そう言って笑えばいい。ぐしゃりと握りしめた羊皮紙が、零れたインクで黒く、染まっていた。