事後表現有り







咥えた煙草の先から、ゆるりと紫煙がくゆる。白い煙が天井近くまで舞い上がり、そうして静かに霧散していく様を、閑はぼんやりと虚ろな瞳で見上げていた。少しの心地好さと温い惰性の混じるこの倦怠感は、嫌いではない。独特の匂いの篭った室内でも、慣れてしまえばそういうものだと流せるものだ、むしろ最近では、定期的にこの感覚に浸りたいと、身体が味をしめてしまっている。情事の後、何もしないままに、煙草を吸うのが閑の癖だった。別段ニコチン中毒というわけではなく、普段は煙草など、持ち歩かなくても何ら支障はないのだが、ふと吸いたくなることが稀にある。それは決まって情事の後で、そんな自分の癖に気づいてからは、煙草とライターを無造作に寝室に放っていた。リヴァンという女騎士を手中に収めてから、閑の煙草は、彼女を閉じ込めた屋敷の奥の一室へと移動した。煙草を咥えながら、別段何をするというわけでもない。ただ無為な時間を愉しみ、怠惰に弄ぶだけだ。時間の感覚さえ存在しないこの部屋に、もう何時間いただろうかという問いは閑にとってどうでもよいことで、シーツに広がった金細工に似た煌めきを誇るリヴァンの金髪を弄びながら、短くなりかけた煙草の灰を、傍の灰皿へと落とす。静寂が火照った脳味噌に心地よく、このまま眠ってしまいたい。…そんな欲求は、静かに開けられた障子の先、恭しく控えた女中の存在によって、簡単に廃されてしまった。


「御当主様、失礼致します」
「……とっても心地よかったのに、いいところで来るねぇ、何?」
「申し訳ございません。…しかし、急を要する事態でございまして」
「だから、何?」
「先日の件に関して、烏丸家の奥方様より、火急の御文が届いております」
「……はぁ。わかった、行くよ」


このまま寝たかったのになぁ、なんてぼやきながら、煙草の火を消して、床に落としたシャツを羽織り直す。ネクタイを緩く締め、億劫そうな動作で立ち上がり、部屋を後にする。ジャケットは、今だ眠り続けるリヴァンの身体にかけたまま、寒いだろうとそのままにしてあった。


冷泉の屋敷は広い。屋敷内でも最奥に位置するこの練は、冷泉を名乗る直系の人間と、一部の使用人しか入ることを許されない、謂わば禁域だ。長い渡り廊下がいくつも存在し、それぞれの部屋を繋いでいる。渡り廊下の下を流れる小川のせせらぎと庭の木に止まっている小鳥のさえずりが風に乗って囁き、穏やかな空間を作り上げている。部屋をでて、少しした頃だろうか。奥の渡り廊下を歩いていた閑は、自分以外の体重で軋んだ木張りの音に気付き、ふと視線をあげる。そこに佇んでいた人影を視認したとき、閑はもう、込み上げる笑気を耐える術を知らなかった。


「……嗚呼…ふふ……ふ、あはははははは…!!!」
「……」
「嗚呼……ふふっ、なんだ…そういうこと…君だったん、だ…」


あーあ、騙された。
その事実に気付いた閑がくしゃりと髪を掻き上げ、あっけからんと笑う。おかしいとは思ったんだ、烏丸の奥方は滅多に文を送る人間じゃない。そんな人間から文が来たと言われて来てみれば、いたのはいるはずのない人間。そう、そういうことか。


誰か、手引き、したな。


それにしても、気付かれるのが早い。早いばかりか、自分に気づかれずに、こんな最奥まで来られてしまった。警戒のレベルを間違えた、この伯爵、とんでもなく厄介だ、厄介なんて言葉じゃ片付かない。しかも、話に聞く限り、彼は剣術も相当の腕前のはず。…さて、困った、彼から逃げられる自信がない。けれど、閑には切り札がある。そしてその切り札は、皮肉なことに、カインに対して、一番有力な効果を発揮するのだ。ゆうるり、閑の口角が笑みを描く。



「……君の愛したリヴァンは、此処にはいないよ」



瞬間、空気が揺らめく。鈍い音を立てて、瞬間的に引き抜かれたカインの剣が、廊下の柱へと突き刺さった。はらり、と、閑の艶めいた黒髪が数本、音も無く床へと落ちる。勢いに押され、床に座り込む形で倒された閑の頬のすれすれに、カインの鋭利な刃が突き刺さっている。一気に閑の動きを封じ、腹部に足を乗せて上に乗りかかる形で動きを止めたカインが、冷え切った瞳で静かに見下ろした。く、と閑の唇が歪に歪み、笑みを刻んで笑気を零す。如何見ても劣勢どころか、勝負は決まったも同然のこの状態で、それでも。閑は、笑った。その不気味な笑気の意味を、カインはすぐ、嫌でも知る事になる。


「…リヴァンは、どこに……っ」
「主様……!!!」


空気を裂く、悲痛な女の叫び声。聞き慣れたその響き、そして。味わい慣れた、痛み。とっさに身体を捻って致命傷を避けられたのは、おそらく長い時間、共に競い合い、剣を極めて来た、カインが見惚れた彼女の剣筋だったからだろう。


「貴様…賊か!!主様から離れろ!!主様に徒なすものは全て、私が排除する!」
「……リ、ア…?」


最早表情を繕うことを忘れ、脇腹から滴る血を抑えながら、茫然と彼女の名を呼ぶカインに、身体を起こした閑が、切れた頬から滴る血潮を手の甲で拭い、うっそうと笑う。あの部屋から出てくるとき、彼女は何も身に着けていなかったが、恐らく目を覚ましてから、閑が用意しておいたものを大人しく着たのだろう。柔らかに波打つドレスの儘、何処の部屋から拝借してきたのか、慣れないであろう日本刀を携えて、駆け寄ってくるリヴァンにそっと手を伸ばす。


「主様…ご無事で…っ嗚呼…頬から血が…」
「大丈夫、かすり傷だよ」
「私が、私が早く来ていれば、こんなことには!!」
「違うよ、君のせいじゃない…落ち着いて、俺はちゃんと、ここにいるよ」
「主様…主様主様主様主様主様…」


虚ろな瞳で、リヴァンはひたすらに閑を呼ぶ。主様と何度も繰り返し、彼がここにいることを過度なまでに確かめようとする。動きを封じるためとはいえ、実質成人男性の蹴りを受けたに等しい腹部が訴える鈍痛を押さえながら、自分に手を伸ばすリヴァンの手のひらを柔らかく包み、信じられないといった表情を隠せないカインに、緩やかに笑う。



嗚呼、だからほら、言っただろう?
君の愛したリヴァンは、もう此処にはいない、ってね。