匂いには敏感なこと、お前だって知ってるくせにな。
 オズのペンやら紙、古書とか、あと香水の種類まで覚えたのに今日、はじめての香りが鼻腔をくすぐった。香水とかはつけすぎたら鼻をおおいたくなるほどの悪臭にもなるのに、その香りはたった一つの宝物のように高級で、甘くて、近寄りがたい――だからこそ、近づきたくなるような香りだった。
 その香りの頻度が日を重ねるたびに、私の不安も蓄積していく。水のタンクに水がたまっていくっていうよりは、砂時計の下に閉じ込められて、砂に埋もれていくような感覚に蝕まれた。

 一度だけ、オズの服の裾を摘んだ。
 オズはそんな私の行動を予想外と思うのか、だけど、予想どうりだと思うのか……息を飲み込んでいるくせに、そのあとには薄く笑っていた。
 私はそんなオズを見上げて、裾を強く握った。そのせいか、ふるふると震えているのが自覚できる。


「オズ、最近……何処に、行ってるの?」


 最近、私にぜんぜん会ってくれないよね。
 あれだけ、私を苦しめようと刺客を送ったり、いじわるしたりしているのに、それがパタリとなくなっていた。
 前の、オズを知らなかった時に戻ったようで、私というバケモノに怖がらないオズが離れていくようで怖かった。
 だけど、オズは私の手を振り払って、私を見下ろす。
 興奮しているのか、瞳孔が完全に開いていて、うっすらと笑みを浮かべた口角から放たれる言葉は無情で非情。だけど、やっぱりって再確認させられた。


「君には関係ないでしょ?」


 そう。関係ない。
 私とオズは、全く関係ない。
 無関係なんだ。
 関係も、私のつながりも思いも全否定したような答えに私の手と視線が下へと堕ちていく。
 不意に地面に描いた丸いシミに、気づける余裕すら、私にはなかった。


 ここ数ヶ月の記憶は曖昧なものだった。本を読んでも大体の中身しか理解していなくて、詳細までは全く覚えていない……そんな感じだ。
 呆然と収集した紙ベースの資料は数少ないもので、たった一枚の写真には黒い髪に、アメジストの瞳を挑発的にこちらに向ける男が映っていた。
 名前は冷泉恭真。
 以前に会ったことのある人間だ。

 容姿は噂では上場らしい。むしろ、トップのトップなんだとか。確かに体術でリーチ取れるし筋肉的にもある程度の重火器は扱えるかも知れない。
 絶対者とか、そんなんあるけどそこらへんはどうでもよかった。
 私が知りたいのは、オズとどういう関係なのか、好き同士なのか、オズのこと好きなのか。その三点だ。
 でも、一番最初の関係というところではどこまでしているのかという点までは理解できている。現在も、アイツ等がはいったホテルを見張ってるんだから。
 オズ、ちょっと嫌そうだったけど、でもすぐ笑顔になってたな。嬉しいのかな。
 下唇をかみながら、膝をかかえてその場にうずくまる。一応、殺し合うという目的で恋人になってしまったけれど、いつの間にか私はオズを好きになってしまっていた。

 オズが幸せなら、それで。
 私はそうおもって、噛み締めて、押し殺して我慢する。
 ダメだから。私がワガママ言ったら捨てられちゃう。嫌われちゃう。
 オズに見捨てられるのは、ツライ。


「夜美?」


 ふと、誰かがそう私を呼んだ。唐突で肩を震わせて、その声のする方向へ顔を向けると、目を丸めた風来さんが私に顔を向けていた。どうしてこんな場所に、なんで泣いているんだと目で訴えていて、それに答えられなくて、私は口を結んだ。
 風来さんはそんな私の視線に合わせるようにしゃがんで、背中を撫でてくれた。それでも私がしゃがんでいるから風来さんのほうが大きくて、自分がちっぽけで醜い存在に思えてくる。

 風来さんは、私の手に持っている資料の写真と、このあたりにはホテルしかないこと、そしてオズとの関係を知っているから、きっと理解したんだろう。
 全部、吐き出すようにため息をついた。そして、風来さんは、背中を撫でていた手を私の左肩に添えて、私を風来さんの方へ引き寄せた。


「……!?」
「泣かないで、ください」


 そのまま、腕の中に閉じ込められて、驚きすぎて、私の体が死んだみたいにうごけなかった。だけど、風来さんは私の背に腕を回しながらも、まだ撫でてくれていた。


「貴女は笑顔の方が、素敵です」
「ふ、う、ら、い……さひっく」
「しー。夜美。今は俺の話だけ聞いてください」


 ニコリと、なだめるように笑った風来さんだけど、目の奥が怒りに満ちていた。普段怒ることはあるけど、ここまで怒ることはそうない。
 抱きしめられた驚きが解けたのに、今度は風来さんの怒りにおののいてしまった。それさえ抑え付けるように抱きしめてくる風来さんが、怖かった。


「俺は、確かに規則を重視します。悪人にはならないようにしていました。でも、でも……好きな女性が泣いていて、何もできない男は悪人以下です。貴女が望んでいるならと、引いていました……だけど、俺は……悪い男になってでも、貴女を笑顔にさせたい。時間はかかるでしょうが。きっと、俺が一番貴女を幸せにできる」


 風来さんは、何を言っているんだろうか。
 好きな、女性? それじゃあ、私が好きって言っているもの。あれ?
 風来さんは、好きって? え? 好き? 私? 化け物を? 
 友達でしょ? 風来さん?
 風来さんに悪人なんて、似合わないよ。


 そう口にしようとして胸板を押し返そうとしたら、風来さんが私の顎の何故か上に向けた。風来さんの顔をまっすぐ見る形になって、一秒もしないうちに、私と風来さんの唇が重なっていた。
 私が拒否する前に、その唇は離れていた。
 真っ白になる思考に、風来さんの言葉だけが耳にはいる。


「そういうことです。順序とか、規則とか……踏んでいては貴方は彼女を苦しめるでしょう? なら、俺も本気で奪います」


 私を再度抱き寄せる風来さん。そして、その言葉を投げかける人間が視界に入ってきた。
 笑みを浮かべた冷泉恭真に、言葉を失っているオズの顔。
 視界が、頭が、真っ黒に染まったようだった。