マイクが恭真のストーカーをするようになったきっかけ
恭真がコンクールに乱入演奏する








その男の奏でるピアノは、多分この空間の中でずば抜けていた。それは、何と言えばいいのか。多分、技術ではない。ピアニストの様な完璧さはない、むしろ、技術のみに限定すれば、彼より優れていた参加者は少なくとも数人はいただろう。ただ、彼の音色は、そんなものではなかった。そんなものに囚われるような、行儀のいいものではなかった。
脳髄に、叩きつけるような暴力的な音。ピアノでこれほどの音量が出せたのかと感心するほどの爆音に、前方席の観客は思わず耳を塞ぐ。心の臓を不安定にぐらつかせ、そして絶妙に揺さぶり、高見から見下ろすような。有体に言えば、気分の悪くなるような、そんな音だった。聞いていられない。多くの人間が、きっとそう感じただろう。けれど、聞いていられないのに、席を立つことすら儘ならない。音色という圧倒的な暴虐に、会場全体が呑み込まれていた。

人を支配するのに長けている人間は、いる。冷泉恭真は間違いなくその部類の人間で、それはピアノすら例外ではなかった。恭真の奏でるピアノは、先に述べたように暴力的で、常人には不安定さしかもたらさない。内包する歪みを前面に押し出し、空間を切り裂くような乱暴さに、大抵の人間は耐えられないからだ。けれど、そういった異端の音でも、それに喝采を送る人間は、稀にいる。





叩きつけるような演奏が終わった後、は、と恭真が少し荒い呼気を逃した。人形染みた白磁の肌が、少し汗に滲む。静寂がざわめく会場に、ふっと吐息だけで笑った。昔からそうだった。家庭教師を呼んで英才教育というやつを受けていたときでも、楽器だけはどうしても相性が悪いのか、はたまた良過ぎるのか、上達の前に、まず教師が恭真の奏でる異質な音に耐えられなくなって、すぐにやめていってしまう。シドや凛架は上手いといってくれたし、今更賛美が欲しいわけでもなんでもないが、偶にこうして大勢の前で弾きたくなる。いくら上手くなっても、拍手喝采は受けたことがなかった。もしかしたら、それだけが若干の心残りなのかもしれない。けれど、まぁ、解っていたこと。今回もダメかと、ゆったりとした動作で腰を上げる。
ぎ、と、椅子が軋んだ音を立てた、その時だった。しんと静まり返った会場に、やけに大きく響く拍手が聞こえたのは。




「ブラボー!!」


最前列に座っていた、やたらとガタイのいい男が立ち上がる。頭が見事に照明で光り輝き、ついでに何故か女物の真っピンクなドレスを着ている。ドレスははち切れそうだった。初めて他人から受けた拍手に感動する暇もなく、そのぶっ飛んだ格好に、恭真が思わず「はぁ?」と抜けた声を出した。何だこれ、何だこいつ。ガチムチ女装ハゲという今まで見た事のない人種に、一瞬身体が固まった。そうしている間に、その謎のドレス男が席から駆け下り、舞台へと上がってくる。あまりの事態に反応が遅れた恭真の腕を掴んで、男は興奮気味に捲し立てた。



「ブラボー!アナタノピアノハスバラシイデース!!ワタシハカンドウシマシター!!」
「え、は…?」
「タタキツケルヨウナオトニカンドウデース、アナタハピアニストデスカー?」
「いや、違うけど…」
「ナンテモッタイナイ!スバラシイ!ブラボー!」
「えーっと…あー、うん、一応、ありがとう?」
「スバラシイ!アナタハスバラシイ!ワタシトツキアッテクダサーイ!!」
「はぁ……え、はぁ!?」
「センサイデボウリョクテキナニメンセイノオンガク!アナタノココロヲウツシタヨウデース、アンナエンソウヲデキルアナタニホレマシター、オツキアイシテクダサーイ!!」
「え、いや、断る…!」
「ソンナコトイワズニー!!アアッ、マッテクダサーイ!!」



演奏を褒めたかと思いきや、謎の告白をかましてくるガチムチ男に一筋の冷や汗を流し、その手を振り払って急いで駈け出した。ぽかんとする観客が居並ぶ客席の間を駆け抜け、慌てて会場の外へと逃げ出していく。それを追うガタイのいいドレス男。
恭真はこの日、気まぐれでコンクールに乱入したことを心底後悔した。
ガチムチ男、通称マイクは、この日コンクールを見に来たことを心底喜んだ。

ここに、現在まで続く鬼ごっこの因果が誕生したのだった。







「オー!キョウマーマッテクダサーイ!!」
「来るな寄るな触るな近寄るなぁああああああああ!!!!!!!」


逃げる芸術品染みた男と、追いかける女装のガチムチハゲ。
二人の想いが通じる日は、多分永遠に来ない。