ちょこっとネタバレ
流血シリアス
刹那の中の闇の話






ふと自分の手を見ると、その手は真っ赤に染まっていた。
ああ、やっぱり。
自嘲染みた笑みが零れた。両手に握った拳銃が、今日はやけに重たく感じて、無意識に握力を緩める。
鈍い音を立てて、二つの鉄の塊が、地面に転がった。
衝撃で地面の血溜まりが跳ね、ズボンの裾に赤い染みが広がる。

徐々に空が明るんできた。
ああ、早く戻らないと。学校に遅れてしまう。
携帯を取り出し、手早く電話をかけてたった今この手で殺した死体の処理を命じ、帰路につく。
眩しい夜明けの光が、今日はやけに憂鬱だった。





学校の敷地内に入ると、挨拶が飛び交う。
クラスどころか校内でも屈指の人気者である刹那に声をかける者は多く、普段ならそんな自分の環境がとても恵まれていると、嬉しいと感じるはずなのに、今日は何故か苦痛にすら感じた。
いつものように笑顔で応えようとしても、その笑顔すら引き攣ってやしないか、酷く不安だった。

こんな自分、知られたくない。
見破られたくない。

それは最早意地だった。

"学校の王子様"の意地。
"マフィアのボス"としての意地。
小さなプライド。
"遠野刹那"の、なけなしのプライド。


「おはよう、刹那」
「…、…おう!はよ、琥珀」


自分に言い聞かせるようにしていると、また後ろから声をかけられる。
琥珀だった。
大丈夫、大丈夫だ。そう心中で呟いてから、いつも通り笑顔で返す。
演技は得意だった。

だって、自分は特別なのだ。裏の人間なのだ。
いや、そもそも、元から。


ここにいてはいけない存在だった。



そんな思考が浮かぶ。
それにはっとして、目を見開く。ああ、そうだ。どうして忘れかけていたんだ。
琥珀の頭を撫でようとしていた手が空中で止まる。
不思議そうに首を傾げた琥珀の、自分の名前を呼ぶ呟きさえ耳に入らなかった。

駄目だ、触ったら。
琥珀を、汚してしまう。
ただでさえ汚れた手なのに、今日は殊更。だって、ついさっき汚れたばかりなのだ。

ほんの数時間前に、俺は、人を…殺した。

それなのに、何をしようとした?
琥珀に触ろうとした。琥珀に触れようとした。
琥珀を…汚そうと、した。


「っ…!!」
「え?刹那…!?」


そんなの、嫌だ。

気がついたときには、逃げ出していた。
心を置き去りに、身体は弾けたように飛び出して、廊下を全速力で駆け抜けていく。
ほとんど音を立てない走り。裏社会で身に付けた生きる知恵。
本来ならこんな場所でしてはいけない異端の動きだったけれど、そんなことを考えるような脳ミソの余裕はとっくに失っていた。

ただ走って、走って。ひたすらに走って。
ふと脚を止めると、そこは屋上だった。高く、街を見下ろせるこの場所は、刹那のお気に入りだ。
普段ならこの程度走っただけでは息など切れないが、今ばかりは荒く、心臓も激しく踊り来るっていた。
息を整えようと、入り口の壁にずるずると座り込む。

駄目なんだよ、俺は。

声を出さずに呟く。
そう、駄目なんだ。自分の身体は、もう黒く赤く汚く、染まっている。
他者からの敵意、悪意、殺意には異常に敏感に反応するし、とっさの時には服の中に隠したデリンジャー…小型の拳銃に手が伸びる。
そういう身体なのだ。


「っ…琥珀…」


綺麗な琥珀。可愛い琥珀。
自分と違って、まっさらで、血になんか汚れてない琥珀。
ただの男子高校生である琥珀が、何故か無性に愛おしかった。
普通の、どこにでもいるような高校生。ただの男の子。一緒にいて楽しくて、もっと傍にいたくて、ただ隣にいられればそれでよくて。
だから、だからこそ。


「琥珀には…知られたくない…っ」


琥珀には、琥珀にだけは。
知られたくない、見られたくない、汚したく、ない。

知らず、涙が一筋、零れた。
どんなに言い繕っても、どんなに虚勢を張っても、どんな肩書きがあっても、どんなに自分に言い聞かせても、どんなに子供でなどいられない状況に立たされていても。
刹那はまだ脆い、ただの十七歳の少女なのだった。

けれど、それを叱咤するように着信音が鳴り響く。
はっとして涙を拭い、一度深呼吸してから、携帯を取り出し、耳に当てた。


「…どうした?」
「ボス!大変です、今朝の残党がまだ残っていました。そちらを嗅ぎ当てられるわけにはいきません、至急お戻り下さい!」
「わかった、すぐ戻る。見つけ次第…殺せ」


耳慣れたイタリア語。
言い慣れた命令。
日常的に使われる、死の単語。

これが俺の日常だ。

携帯をしまって、屋上を後にする。
ゆっくりと階段を下りていくと、授業中だというのに、ばたばたと足音が響いてきた。


「刹那…!」
「…琥珀…?」
「よかった…見つけた…」


息を切らしながらも、嬉しそうに微笑んで駆け寄ってくる琥珀に、戸惑いの表情を浮かべる。
蜂蜜色の甘い瞳が、刹那を見つめる。


「あのね、俺、刹那が何に苦しんでるのかわかんないけど…俺、刹那が大事だから」
「…こ、はく…」
「だから、さ…無理に話してなんて言わないけど、その…俺の前から、いきなり消えたりしないで…お願い…」


ふわり。刹那のしっかりと握って、琥珀が笑った。
その笑みに、視線が奪われる。嗚呼、綺麗だ。
自分にない微笑み。自分が出来ない微笑み。
それに対して感じたのは、醜い妬みなんかではなく、ただただ純粋な憧れと賞賛、そして苛烈な枯渇感。
それを自覚して、ああ、なんだ、自分はまだ綺麗だ。
なんとなく、そう思った。それが酷く嬉しかった。


「……、なーに言ってんだよ、琥珀!俺がいなくなるわけねーだろ?な?」

いつものように笑った。下手くそで泣きそうな、ぼろぼろの笑みだった。
だけど琥珀も、そうだね、って、笑って。
空気が洗浄されて、いつも通りに戻っていく。

「……ありがと、」

すれ違い様、そう呟く。面と向かって言うには、あまりにも照れ臭かったから。
さぁ、行かなければ。
にこり。偽らずに笑みを浮かべて、琥珀の隣を駆け抜ける。





途中、手洗い場に寄って、顔を洗った。冷たい水に、思考が冷えていく。



迷うな。
怯むな。
恐れるな。
怯えるな。

迷いは身を滅ぼす。
躊躇いは死に繋がる。



瞬時に引き抜いた拳銃を撃つ放つ。
一拍遅れで、人が地面に倒れこむ鈍い音がした。
刹那の命を狙う暗殺者。けれどもう息はない。

「…ドンナ、こちらにおいででしたか」
「ああ。…で、どうだ」
「最近噂になっている、北イタリアの…」
「フェッロか」
「はい。どうやらやつらの指示で動いていた模様…どうなさいますか?」
「証拠を突きつけ、ケジメを付けさせろ。従わないようなら…抗争だ」
「Si.donna storia」

了解致しました、我らがボス。
厳粛に頷いた部下が、自分の一歩後ろに下がってついてくる。


不意に、自分の手を取り、微笑んだ琥珀の顔が頭に浮かんだ。
それに穏やかな笑みを浮かべ、刹那は路地裏へと消えていった。