若干の流血有り
何故か時代を超えてやってきていたカインさんが唐突に帰る
カイジルちゃんは両片思い…?






虫の知らせというものがある。
それは唐突に、ふと、何かが頭上を撫でて走り去っていくような感覚だ。
説明するには難しい。そう、本当に、何と無く。今まさに、ジルダが感じたのはそんな感覚だった。
ふ、と、今まで書物に落としていた視線を滑らせれば、窓枠がかたかたと揺れている。嵐が来そうな、不気味に風の吹きすさぶ夜だった。

ジルダはこの屋敷の主であり、現伯爵の地位にあるのだが、彼女が過ごす部屋は代々の伯爵が使用してきた部屋ではない。
何が起きたのか、どうしてか、そんなものは遥か彼方へ吹き飛ばし、何故かいつの間にかやってきた、二代目伯爵。ジルダがこの上なく憧れていた、カイン・ヴィンチェンツオその人が、伯爵の部屋を使用しているからだ。
部屋の問題は当初揉めに揉めたのだが、結局ジルダが押し通し、二番目に大きな部屋を使うという形で纏まった。

今、この屋敷には、二人の伯爵がいる。ずっとずっと会いたかった人だった、でも、会えなかった。当然だ、解っていた、諦めていた。だって彼は既に死んでいた。
現に、廊下に掛けられている歴代伯爵の肖像画の二番目に彼はいるし、死亡時の記録も残されている。
だから、ジルダは、二次元に恋をしたに過ぎなかった。毎日毎日、廊下を通るたび、その憂いたような柔和な微笑みに焦がれていた。ただ、決して絵画の中の彼とは、視線は絡まない。触れ合えない。肖像画に触れるなんて真似は恐れ多くて出来なかった。

それが、今は、どうだ。
理屈はこの際放り投げれば、かの人は自分のそばにいて、時折困ったように笑ってくれる。それだけがとんでもなく嬉しかったのだ。
その心地よい空間が。
今、糸を鳴らすように、揺らいだ気がした。


「…御先代様…?」


言いようのない不安に駆られる。思わず、音を立てて立ち上がった。
羽ペンが転がり、インクが転けて羊皮紙に飛び散る。それにすら構わず、扉を開け放つ。
廊下を駆けて、少し前まで自身の自室だった部屋へと辿り着けば、息を整えて扉をノックする。


「…ジルダです。失礼しても宜しいでしょうか」


いいよ、と、常より薄い声音で返答が返れば、間髪入れずに扉を開けて中へと身を滑らせる。
黒い髪、赤い瞳、白い肌、ゆったりとしたマント…ああ、彼だ。
絵画からそっくりそのまま抜け出たような姿のカインが、ソファへと腰かけて優雅にこちらを見つめている。きちんと、いる、なのにジルダの中の不安にも似た暗雲は消え去ってはくれずに、以前胸中に揺蕩っているのだ。
なぜ、どうして。
声にならない問いかけ、否、もはや縋るような手のひらが、無意識のうちにカインの方へと伸ばされる。


やっぱり、少し困ったように、仕方ないなぁとでも言うように。柔らかく笑った彼に、ジルダの手のひらは届かなかった。


「、あ……、」
「……ごめんね」


もう、時間みたいだ。
そんな声さえ空気に溶け出して、手繰り寄せることすら叶わない。
カインには解っていた。これで、タイムリミットなのだと。それは、この不思議な時間旅行ではない。

自分の、いのちのリミットだ。

不思議なことに、ここで過ごした僅かな時間の間、一度も吐血をしなかった。記憶をなくすこともなかった。
だから。多分、そういうことだ。
最後に自分の身体、否、精神は無理をして、酷使して、ここにいた。結果、残っていた僅かな炎を燃やし尽くした。後悔はない。それでよかったと思えるほど、目の前で絶望に飲まれそうになっている彼女が、心底いとおしかった。

まだ、間に合うだろうか。
時間はあるだろうか。
僅かでいい、どうか、持って欲しい。自分の身体だろう、どうか、動いて。



そっと、腕を伸ばして、やけに小さくみえたその身体を、抱きすくめた。
ああ、よかった。抱きしめられる。
驚くジルダを横目に、抱きしめた体勢のまま、自身の耳朶に嵌っているリングの一つを取り外す。

それを、持って。
近しい位置にある、傷一つなく、僅かに赤く染まった彼女の耳朶へ。

手加減なく、思い切り、突き刺した。




「っ……!!」


ぽた、と、一滴の血潮が床へ滴る。無理矢理こじ開けた穴から溢れる血をそっと舐め取って、そうして身体を離した。



「それを君にあげよう。私の気に入りなんだ…大切に、ね」



はっとしてジルダが顔を上げたときには、もう。室内には誰の気配もなく、ただ、先程と同じように、窓枠だけが虚しく鳴いていた。
けれど今だ残る床の血痕と、ずきずきと痛む耳朶の鈍痛が、残されたピアスが、彼の存在を夢で片付けるのを許さなかった。


廊下に掛けられた、歴代伯爵の肖像画。
二代目伯爵、カイン・ヴィンチェンツオ。
彼の絵画から、ピアスが一つ、消え去り。口元に僅かな血痕が残っていることは、まだメイドのソフィアしか知らない。