自暴自棄になったカインさん
気怠い昼ver





がしゃん、と、派手な音が閉め切られた一室に響き渡る。次いで激しく咳き込む声と、そして荒い呼吸音がしていた。
その音はちょうど昼下がりの静かな屋敷の中においてよく響き、幸か不幸か、部屋の前を通りかかったツバキの鼓膜を揺らす。ここの部屋は、伯爵の部屋だ。つまり、今現在この屋敷の主である、カインの私室である。ツバキは、彼が時折吐血しているのを知って居た。見てはいない、彼は決して、人前でそんな素振りを見せない、そういう人だ。けれど、だけど、だからこそ、この屋敷の人間は皆彼が好きで、それゆえに現状に薄々気付いている。ひゅ、と、喉が鳴った。渇いた空気が唇から漏れ、勢いよく部屋へと駆け込めば、案の定、ベッドに腰かけて口元を押さえるカインの姿があり。ツバキは慌てて、彼の方へと駆け寄った。


「は、伯爵…っ、」
「ッ、げほっ…ごほ……―――…嗚呼、ツバキ、か」
「っだ、大丈夫っすか?今、水を持って「それより。ワインをくれないかな。嗚呼、ついでに新しいグラスも。さっき、床に落としてしまってね。」

「え…」


そこで。
ツバキはようやく、げほ、と、口元を拭う彼の様子が普段と異なっているのに、今更ながらに気付く。そして、室内の異様な状況にも。
普段、きっちりと着込み、そうしてマントを羽織る彼はズボンとシャツだけしか身に付けておらず、それも就寝時のように着乱れた儘だ。いや、就寝時のまま、今まで着替えてない、というのが正しいようにも見える。
手袋もないせいで白く骨ばった指先の形までもが見え、何故か、見てはいけないものを見た気さえする。
加えて、室内は明るい昼間だというのに、カーテンが締め切られて薄暗く。よくよく見れば、床にはいくつもの染みと、割れたグラスが散乱している。あれは、何だ。一番近い染み、そう、ベッドから床に滴っている雫が作り出す染みは、確かにワインのものだ、でも、あれは。あの、他の染みのいくつかは。


ひたりと背筋を、冷たい手でなぞられた感覚に襲われた。


「けほッ…、ッ、本当、使えない身体だな」
「は、く、しゃ……」


―――――何だ、コレは。
コレは、誰だ。彼は、言わない。本心でどう思っているかは知らないが、自分たちの前で、自身の身体を"使えない"などと称さない。
ツバキの視界が仄暗い黒に染まる。薄らとしか入り込まぬ光源の中では、彼のルビーのような煌めきを持つ瞳だけがやけに強い色合いを放っていて、いつもは綺麗だと思うのに、今ばかりは粘着いた血潮めいた濁りを感じて、身動きが取れない。

そのうちにカインが「あ、」と思いついたような声を上げ、少しばかりふらつく身体を引き摺り、ベッドから身体を下ろす。そうして、どこかへ行ったかと思えば、片手に、やたらと重厚な、そして鈍い光を放つゴブレットを持ち、もう片手には恐らく年代物だろう新たなワインを掲げ、再びベッドに戻って来る。
よいしょ、と、いつもみたいな軽い声音で零して腰を降ろせば、枕を背凭れに身体を倒し、起用にコルクを抜いて鈍いグラスへとワインを流し込む。


「それ、は……何っす、か、」
「ん?嗚呼、これ?鉛のグラスだよ、これで飲むとワインの味わいが増すらしいって、風の噂に聞いてね」


知っている。ツバキは、その話を知っている。
何の因果か、先程まで出かけていた街で、耳にした話。
「鉛のグラスでワインを飲めば、酸の作用で味わいが増すが、その反面。毒性の強い金属であるため、それが人体に蓄積されれば、最悪死に至る」
駄目、それは駄目。どうして。
胸中を様々な言葉が巡り、喉元を押し上げるのに、それらは一つとして音にならず、吐き出す吐息に霧散していく。
上品な仕草でその重いグラスを煽るカインの瞳に、雰囲気に当てられて、満足に呼吸もできない。


「…うん、確かに美味しい」


思わず視線を逸らせば、暗闇に目が慣れた所為か、否応がでも目に飛び込む惨状。
散らばった硝子片、それはきっと、割られたいくつかのグラスの末路で。
所々に形作る、渇ききっていない染みは、くすんだ紫と赤。きっと、零れたワインと、彼が吐いたのであろう吐血の痕だ。
理解すると同時に、徐々に鼻腔へとアルコール臭が漂ってくる。

何もかもが、異常。

どうすればいいか解らなくて、どうしようもなくて、思わず彼のシャツの裾を掴んだ。
なぁに、というように、グラスを口につけたまま向けられる視線から逃げるように、シーツへと視線を落とす。
そうすれば、再び先程の吐血の名残が視界に広がって、ぎゅっと目を瞑った。


アルコールに逃げる人ではない。何事も嗜む程度で、溺れたりしない。
なのに、今、彼がワインを飲み干すスピードは尋常でなく、飲むグラスすら危険性を孕むもので、加えて今は昼間で。これでは、まるで。
享楽に、溺れて、いるような。
傍に女でも転がしておけば、出来の悪い映画の悪役みたいだ、嗚呼、いっそ笑えてしまう。
泣きたいのか、笑いたいのか、それすら曖昧な、下手糞な笑みでツバキは笑う。


「……ワイン、零れちゃった、っすね。タオル、とって、くる、っす」



逃げるように、彼の部屋を去った。
途中の角を曲がって、その先で蹲る。先程の光景が目に焼き付いて、離れない。白昼夢染みたあの光景が。
幼い頃、彼の大きな手の平に、頭を撫でられた感覚が、ふいに甦る。
急激に、彼のいのちの灯火が消えかけていることを知覚した気がして、それが、重たい質量を伴って頭上に降りかかったようで。

ぽた、と。
熱い雫が、廊下に一つの染みを作った。