「駒鳥の瞳は潰された」続編
壊れたリヴァンさんと閑







自分が何を本当に欲しがっていたのかなんて、もうとうの昔に忘れてしまっているんだろう。





「リヴァン、おいで」
「はい、主様」



重たい鎖が鳴いている。美しかった金髪を乱雑に切り捨てたリヴァンの足首を拘束するその頑丈な枷はまるで自分の滑稽な執着心の重たさのようで、彼女の方へと足を進めながら、彼女に気づかれないように笑った。彼女は、リヴァンは、数日前に、狂った。それはもう、完膚なきまでに、壊れた。主のため、主以外には屈さないと、何をしても、どんなことをしても、そう、その腹に子を宿してもなお強い光を保っていたリヴァンは、主であるカインとの決別をきっかけにし、徐々に弱り、衰弱し、そうしてついに狂った。カインと閑の見分けもつかなくなり、幻想に囚われて、閑をカインだと思い込み、今までとはうって変わって、閑の言葉に骨の髄まで忠実になった。おいでと言えばすぐに傍に寄ってきて、キスしてみせてと言えば、私などが主様に口づけるなど恐れ多いとか何とか言って断るも、それは今までの拒絶とは、拒否の種類が違う。いいからして、命令だよ、とでも言ってしまえば、大人しく言うことを聞く。



「主様、主様主様主様主様…」
「ここにいるよ」
「嗚呼、主様…お慕いしております、どうか、どうか、私に生涯、貴方様を護衛させて下さい…命に代えても貴方様をお守り致しますから…」
「ふふ、地獄まで?」
「当然です、ずっと、ずっとです、主様、リヴァンはずっと、貴方様のお傍に」



毎日、毎日、リヴァンは閑に、カインと間違えたまま、ずっと傍にいさせて下さいと繰り返す。足首の鎖など、もしかすると、最早意識下にはないのかもしれない。そう思わせるほど、リヴァンはただただ、閑しか見ていなかった。まるで、目の前の閑が、カインであることを確かめるように、幻想を肯定し続けるために、そう繰り返す姿は、傍目から見ればどれほど痛ましく、そして同時に、どれほど滑稽なものか。そんなリヴァンを、いらないと捨て去るには、閑は彼女に執着し過ぎたのだろう。

閑は、リヴァンが欲しかった。あの美しい瞳が、横顔が、風に靡く金髪が、柔く、だけど鍛えられた白肌が、しなやかな手足が、圧倒的な戦闘能力を宿す身体が、もう何もかもが、欲しくて、ただただ欲しくて、飢えたように焦がれて、堪らなかった。恋に溺れるだなんて単語を作り出したのは一体誰だ、もう本当にその言葉の通りで、閑はリヴァンに囚われてから、ずっと、溺れたような心地だった。欲しい欲しいと足掻く様は溺れた人間が無様に酸素を求める様にすら似通っていて、だからそう、閑にとって、あの瞬間からリヴァンは、酸素にも似た存在になったのだ。彼女を手に入れたその瞬間から、彼女に触れている間だけ、閑は呼吸が出来る。溺れて、酸素が欲しくて足掻いて、でも足掻かなくても酸素を補給出来る手段があるのだと知ったその時、閑は足掻くのを止めた。溺れた状態から、助かろうとすることを、完全に諦めた。酸素があるのなら、このまま沈んだって、構わない。ずっと足掻いて、疲れ切った手足から、力を抜いた。手に入れた酸素を抱えて、そのまま、暗い海の底に、沈むことを選んだ。嗚呼、もうこれで大丈夫、苦しくない、呼吸が出来る。暗い、暗い深海の底で、眠る道を選んだ。



「あーあ、せっかく綺麗な金髪だったのにねぇ」
「…申し訳有りません、主様。貴方様の好いて下さったものを、私が壊すなど…っ」
「嗚呼、もういいよ。その仕置きは、この数日で与えただろう?」
「は、はい…ですが…」
「全く、強情な子だなぁ。じゃあ、そうだねぇ、私の選んだドレスを着て貰おうかなぁ」



ゆるり、ゆるり。リヴァンを足の間に座らせ、閑はゆったりとした手付きで、切り落とされ、長さもばらばらになってしまった彼女の金髪を弄ぶ。相変わらずの指通りのよさに、さてどうやって整えようか、なんて、ぼんやりと考えた。

触れているだけで満足、なんて、そんな殊勝な激情なら、きっと閑は今、もう少しまともな壊れ方をしていただろう。けれどもこうして傍にあれば、呼吸が出来るのも事実。元々リヴァンは、主を名前でなど呼ばない人間だ。だからあの時以来、カイン様という言葉は聞いていない。けれども、このどうしようもない嫉妬のような、焦燥のような、黒く淀んだ感情はずっと、閑のこころを蝕んで、消えてくれないのだ。仕置きと称して、それこそ、性交から人形扱い、理不尽な暴力、罵倒、思い付く限り全ての苛苦を与えてみたけれど、この感情は消えない。嗚呼、きっと、リヴァンに何をしても、これは解消出来ないのだろう。ならば彼を、カイン・ヴィンチェンツォに何かをしたところで変わるのかと言われたら、それも是とは言えない。否、きっと、殺しでもしてしまえば、随分と軽くはなるだろう。もうリヴァンの慕った、大切な本物の主はいないのだと、そう思ってしまえば、多少の軽減にはなる。でも、消えない。それならば、何の解決になろうか。下手にあの頭の切れそうな男に再び接触することにより、吐き続けた嘘が、虚構を崩して、手がかりを与えるような真似をしてまで、軽くするようなものか。感情の軽減と、酸素の危機を天秤にかけて、閑は酸素を守ることを選んだ。こんな場所で、こんな深い深海で、酸素を奪われては堪らない。だから閑は、呑み込もうと思った。黒い感情は、仮面の下にすっかり隠してしまって、ただ笑えばいい。それだけのことだ。

ほらこれを来て、次はこれね。
たくさんのドレス、ネックレス、指輪、ブレスレット、髪飾り。着せ替え人形のように、リヴァンに様々のものを身につけさせ、それを楽しげに見つめる。ひたすらに着替え、そうしてようやく気に入るドレスが決まって、ようやくもういいよと閑が言う。おいでと再び手招き、脚の間に座らせたリヴァンが、着飾られた姿のまま、ぽつりと小さく声を落とす。



「…主様、愉しいですか?」
「うん、愉しいよ。君はどんな格好をしても綺麗だけれど、白はまた格別似合うねぇ」
「ありがとうございます…主様が愉しいのなら、私はそれだけで…」



傷ついた身体に、赤の滲む身体に、無骨な鉄枷の嵌められた脚に、純白の白がよく似合うよ。
その白を自分の手で、汚して、壊して、ぐちゃぐちゃにしてやる瞬間が、堪らない。爪でリヴァンの胸元を引き裂けば、赤い滴がゆっくりと形を為し、やがては球体が決壊して、白い肌に赤い線を描いていく。嗚呼、うつくしい。



「リヴァン、お前は誰のもの?」
「主様です、私はずっと、主様の、主様のお好きに」
「いい子だ」



ゆっくり、滴る血潮へと口を付ける。甘ったるい血の匂いに、頭がくらくらして、酔ったみたいになって、蕩けたように思考が霞んでいく。長いままに残った金髪を引っ張り、抵抗の気配さえない身体をベッドに倒して、着替えさせた白いドレスに滲んでいくあまりに鮮烈な赤に、口角を上げる。




さぁ、呼吸をしようか。