「駒鳥は誰を殺したの、」続編
相変わらずのカインさん→←リヴァンさん←閑で泥沼悪化








舞い散る金糸が綺麗だな、と、ぼんやりと考えた。割れたグラスがベッドに散乱し、嗚呼、あの欠片で切ったのか、とか、ぼんやりと事実は理解するのに、それらは全て、あのあまりに綺麗な金糸を見れば霧散していく。彼女の綺麗な髪が好きだった。指通りがよくて、絹のような感触のあの髪を、一際気に入っていた。けれど、怒りより先に湧く、この感情の名は、嗚呼、そう。賛美。ざんばらに切り落とされ、長さも歪な金髪の残りでさえ、こんな状態でも、彼女は変わらずにうつくしかった。引き寄せられるように、ほぼ無意識に、彼女が座り込むベッドへと歩み寄る。酩酊した足取りで、そっと近寄れば、彼女が、リヴァンが顔を上げ、擦れた鎖が鳴いた。


「……、…主様?」


か細い、今にも消えてしまいそうな声音が紡いだ言の葉を、閑は理解出来なかった。今、彼女は何と言った?主様?誰が?彼女の主は、あの男のはずだ。カイン・ヴィンチェンツォ。どれだけ閑がリヴァンを傷つけても、どれだけ痛めつけても、彼のせいで決して彼女は手に入らなかった、憎しみも嫉妬も憎悪も何もかも通り越したような、そんな存在。彼が、カイン・ヴィンチェンツォが、リヴァンにとっての主だったはずだ。なのに、彼女は今、閑に向かって、主と呼んだ。顔にかかる前髪のせいで、リヴァンの瞳は見えない。ついに壊れたのかと、そっと白磁の手のひらを伸ばし、リヴァンの髪を梳いて、頬に手をかけて上を向けさせる。そこで初めて、閑はリヴァンの瞳を見た。そこでようやく、閑はリヴァンの、光を失った瞳に気付いた。嗚呼。壊れた。



「嗚呼……主様、主様、主様主様主様主様主様主様……今まで、どちらに…よかった…主様……もう離れません…この命を持って…貴方様を、生涯、お守り…致します…」



焦点の合わない瞳で呟く言葉はどれもこれも、今までカインにだけ向けられていたもので、今自分が誰に向かって何を言っているのか、もう何も解っていないようだ。自分を、主と認識したのか。それとも、自分を、カインと勘違いしたのか。このとき、自分を、カインと間違えることなく、主だと認識してくれていたなら、だなんて、そんな弱弱しい幻想を抱いたことを、閑は認めたくなかった。そんな縋るような思考を、自分が抱いたなんて、考えたくもなかった。主様主様と狂ったように、ひたすらに呼び続けるリヴァンの傍へと腰を下ろし、両手で頬を掬い、じっと、光を失った暗い青を見つめる。あれだけうつくしく、濡れたように輝いていた青は、今は光さえなく、濁ったような鈍い色合いを放っている。



「名前で呼んで、リヴァン」



壊れた彼女は、否、自分が壊した彼女は、どちらの、名前を呼ぶのか。毒々しいまでに赤い唇が僅かに震え、覗く舌先が淫靡に揺らめいて、言の葉を乗せて吐き出す。嬉しそうに笑ったリヴァンの表情は、今までに見たことがないほど、そう、あのカインにさえ向けていたのを見なかったほど、綺麗でそして、可愛いものだった。聞きたくないと、そう思った。本当は、頭のどこかで解っていたのかもしれない。自分の名を呼ぶことがないのだと、彼女がそんな顔で、そんな声で、自分の名を呼んでくれるだなんて、ありえないんだって、本当はずっと、解っていたのかもしれない。見ないで欲しかった。今の自分の顔を、絶対に誰にも、見られたくなかった。今まで、今の今まで、ずっと綺麗に押し隠してきたのに、ここで初めて、閑の仮面が崩れた。嫉妬、憎悪、嫌悪、妬み、どろどろとした何もかもに塗れたその顔は、歪んでなお洗練さを保ち続ける閑から、透明さを根こそぎ奪い尽くす。一部には神と讃えられるほど、うつくしく存在の定義から人間離れしていた閑は、今この瞬間、一人の男でしかなくなった。



「……カイン、様…」



嗚呼。嗚呼、嗚呼!
どうして、どうして、ようやく壊れたのに、どうしてまだあの男の名前を呼ぶ!心底嬉しそうに笑うその表情が、今まで欲しがった彼女の体温が、何もかもが閑をおかしくさせる。手に入れたのに、身体も精神も、何もかも、壊して、壊しつくして、落として、貶めて、全部手に入れたと思ったのに、どうして最後の一つだけが手に入らない!
欲しいのに、欲しいのに、抱き寄せ方も知らない手のひらでは、どれだけ手を伸ばしても届かない、苦しくて苦しくて、嗚呼、呼吸が詰まりそうだ。苛立ちと激情と嫉妬と妬みと嫉みと怒りと虚しさと、何もかもがない交ぜになって、思考が爆ぜる。



「……、…はは…」



僕は何が欲しかった?彼女に何がしたかった?彼女をどうしたかった?
解らない、嗚呼もう何も、解らない、いつしか全部見失ってしまった。
偽物の主なんかに縋るリヴァンが、あれだけ大切だったはずの主の判別さえつかなくなってしまった彼女が、哀れで、不憫で、無様で、滑稽で、知らず笑気が零れる。自分に身体を寄せるリヴァンの、すっかり細くなった腕を乱暴に掴み、引き摺り倒すように、シーツへと押し付ける。思いきり真っ白なドレスを引き裂いてやれば、翼をもがれた天使のようで、一層滑稽さが極まる。嘲笑にも似た笑気が唇から洩れ、リヴァンの上へと落ちる。彼女はそれさえ嬉し気に享受するから、吐き出すべき言葉を見失い、感情の昂りのままに、リヴァンの手首を捻り上げる。



「……どう、ぞ…主、様、の…望むまま、に…」



望むわけではなく、だがしかし拒絶など初めから選択肢にないかのように、リヴァンはされるままに身体を横たえる。力任せに噛みついてやろうとも、そのまま首筋から血潮を引き摺り出そうとも、小さな呻き声を噛み殺すだけで、決して反抗をしない。どれもこれも、今までは全身全霊で拒絶し、抵抗していたというのに、主と間違えただけでこの変わりようだ、馬鹿らしくて下らなくて、嗚呼、笑いが止まらない。認めたくないけれど、けれどずっと、自分がただ求めていたものが虚しさと引き換えにあっさりと手のひらに落ちてきて、これを笑う以外にどうしたらいい。

自分とカインを間違えられてさえ、苛立ちと嫌悪の中に僅かの優越感が、ほんの少しでも混ざるだなんてそんなこと、思う自分と壊れた彼女の、どちらが無様なのかなんて、笑えるくらいにふざけた問いは、ドレスと共に引き千切られた。