紫苑×郁人
悲恋BL
紫苑と風葵は付き合ってないIF






初めから愛なんかなかった。僕等の関係に名前を付けるとしたら、多分、知り合いとでも言うしかないだろう。或いは友人とでも称するかもしれない。結局関係性などは建前上のもので、名前なんて物は大した意味を為さないのだ。少なくとも、僕と雛見郁人の間では、そうだった。

はじまりの話をしよう。
或いは、僕等のおわりの話をしよう。
僕達はどこまでも二人で、他人で、結局一つになんかなれやしないのだ。



さて、僕等の思い出とやらを語るためには、まず彼の話をしなければならない。彼の名前は雛見郁人という。黒い髪と黒い眼に、平均的な日本人の顔立ちに、可も無く不可も無くの能力。雛見は基本的に平凡な人間だった。しかし彼は、驚くほどに無気力だった。どれほど無気力かと言うと、面倒臭いという理由で二日ほど絶食したり、一日ベッドから出てこなかったり、挙句の果てには同じマンションのOLに餌付けされた挙句、それに付け込んで喰われても気にしない、自分の童貞消失にさえ無頓着という驚きの無気力さだ。僕と彼は先程も述べたように知り合いや友人といった関係だったから、何と無くで共に食事をしたとき、彼自身の口からこれらを聞いて、大層笑ったものだ。嗚呼、おかしい。思い出したらまた笑えてしまう。そう、つまり僕らはただの友人で、もしくは知り合いで、それ以上でもそれ以下でもなかったのだ。


ある夏の日、夕立の晴れた後の薄暗い教室で、雛見が泣いた。
雛見は、僕が好きだとは言わなかった。その日僕らは音もなくキスをした。


それから僕らは、時々思い出したように唇を重ねた。世界に忘れ去られたようにぽっかりと空いた喧騒の隙間で、ただ黙って口付けを交わす。それを誰かは不実だと言うだろうし、はたまた誰かは純愛と呼び、また誰かは爛れた戯れだとも言う。唇と唇を触れ合わせるだけの行為は、それを第三者が認めることにより、途端に恋愛の色をなすり付けられるのだ。愛でも恋でも親愛でも戯れでもないこの行為に、一体何と名前を付ければよかったのだろう。僕は未だに解らない。僕らは一体、あの行為に何を求めていたのだろうか。何も求めていなかった、強いて言うなら、行為こそを求めていた。付随する感情は何もなく、ただキスがしたかった。そう言うしかないあの静けさに濡れた感触を、一体どうしてざらついた言葉なんかで汚せるだろう。彼といるときだけ、僕らはどこまでも透明だった。

彼は僕を冷泉と呼ぶ。何の温度も宿さぬその声が紡ぐ僕の名は別段僕の心を揺らしたりしなかったけど、かといって忌むほどに印象に残るわけでもなかった。現に僕は、既に平凡そのものでこれといった特徴すらなかった彼の声を忘れかけている。雛見はどんな声で僕を呼んだのだったか。不思議なものだ、彼の呼ぶ冷泉というイントネーションは、こんなにも鮮明に思い出せるというのに、肝心の声の記憶がぶれているとは。こうしていつか僕は雛見の声を忘れ、顔を忘れ、感触を忘れ、いずれ香りさえ忘れ果てるのだろう。そうなった時、僕の記憶にある雛見郁人という男は、一体何者なのだろう。或いは、それら全てを忘れてもなお、存在が刻みついて消えないものを、特別と呼ぶのだろうか。僕には解らない。雛見が最後に言った言葉すら、既に霞みかけている僕の脳味噌はどうやら随分と薄情で淡白らしい。まぁ、普段と何も変わらぬ調子で交わしたあの会話に、対して価値はないのだろうけれど。

僕らは高校一年の夏に出逢って、二年の夏に唇を交えて、大学四年の夏に別れた。いつだって、僕らの関係には夕立が付き物だった。雨上がりの濡れた空気の中で、僕らは出逢ってキスして別れたんだ。さようならを告げたのは、ある意味僕のけじめだった。曖昧で薄っぺらい関係は僕の日常にすっかり浸透していたものだったから、切り捨てるべきだった。大学卒業と共に、僕は家に戻る。冷たく暗く、歪んだあの家で、僕は生涯を過ごす。父の選んだ婚約者と近いうちに婚姻を結んで、家族と呼ばれる囲いを作って、そうして生きていく。それが自分の未来で、それが当然だったから、僕は雛見のためにそれを投げ捨てる気力も情熱も必要性も感じなかった。そうして雛見も、僕にそれを捨てさせるほどには、僕を必要としていなかった。

始まりのあの日のように、僕らは音もなく唇を重ねて、そうして、いつものように別れた。その日以来、僕らはキスをしなくなった。大学を卒業し、僕は家に戻り、雛見は適当な会社に就職し、そうして僕らを繋いでいた脆い糸は、音もなく切れた。その糸は当たり前に赤い糸などではなかったし、強いて言うならば、色すらない、粘着かない蜘蛛の糸のような、細く簡単に切れてしまう糸だ。僕らは互いに必要とはせず、愛し合ったりもしなかったけれど、互いの存在を感じながら、別々の世界を行けるほどに、温い関係ではなかったのだ。

雛見の最後の言葉を覚えていないことに後悔はない。冷泉と落とすように僕を呼ぶ声を忘れようとも気にはならない。僕等は結局愛し合ってなどいなかったし、好き合ってさえもいなかった。敢えて言うなら、僕等は、ただ何と無くそこにいた。互いを失っても変わりなく日常を過ごし、やがて思い出の一欠片に風化していくだけの存在なのだろう。いつか僕が顔も知らない婚約者と結婚して、子を為して、その子を抱いて空を見上げたとき、君のことを思い出すのだろうか。いつか君が、どこかの誰かと愛し合い、結婚し、子に恵まれて、ふと後ろを振り返ったとき、そこに僕の香りを幻想するのだろうか。

さようなら、最初で最後の嘘を吐こう。
僕は、俺は、君が好きだった。



君のいない世界は、少しだけ色褪せて見えた。