short | ナノ


紅桜編の少しあとの話




はあ、はあっ、肺が痛い、心臓がうるさい。さすがに病み上がりで走るのはきつかったかもしれないといまさらながらに思った。急いで駆け込んだ路地裏にはわたしの息遣いだけが響いていた。痛いくらいの静寂の中にガタリと倒れ込み、わたしの肺はそれが使命であると主張するように酸素を求めていく。肩が上下して呼吸がなかなか落ち着かないし体中が軋んで心も体も苦しい。これ以上走ったらまだ治りかけてもいない全身の傷が開いてしまうかもしれない。




「(だけど…それでも、行かなくちゃ)」




誰にも見付からないうちに、早く、速く、行かなければ。
立ち上がるため全身に力を入れたら、やっぱり1番傷の深かった腹の傷が開いてしまった。あまりの痛みに思わず顔が歪んだ。急いで腹を抑えてみたけれどもうすでに包帯には血が滲み始めていて、触れたわたしの手を赤黒く染めてしまった。あーあ、せっかく妙ちゃんがまいてくれたのにな。まあ、わたしと銀時を外に出さないための数々のトラップをくぐり抜けるのには相当苦労したけれど、でもあれは妙ちゃんの優しさだってちゃんとわかっている。分かっていたのに、わたしはそれを、




「いってえや…、ちくしょー…」




あまりの激痛に頭を壁に傾けると月がすごく綺麗で、試しに手を伸ばしてみたけど震える手は空を切っただけだった。はは、皮肉なものだなあ。
高杉は、わざと致命傷を避けたのかもしれない。でもすぐ回復しないようにと深く深く刺した。ちくしょう、わたしとしたことがほんとありえない。初めてあいつに負けた、悔しいよ、惨めすぎる。不意に涙がひとすじ零れ落ちたから思い切り袖で拭うと予想以上に袖が濡れてしまった。泣くな、泣いてたって仕方がない。食いしばれ、わたし。




「行かなくちゃ」




えぐられた傷の痛みを噛み締めてフラフラと必死の思いで立ち上がった。もう呼吸をするのも辛いこの体はあちこちが痛んで軋む。湿った壁に手を這わせて、一歩一歩壁をつたいおぼつかない足どりで路地裏を抜け出た。




「なーにやってんだてめえは」
「銀、時…」




道の真ん中にはわたしよりもズタボロにされたはずの銀時が立っていた。月明かりに照らされた銀髪はふわふわ輝いて、手が届かなかった月に少しだけ似ている気がして思わず掴みたくなった。
正直すごく、びっくりした。誰にも気付かれないように出て来たつもりだったのに、なんで、銀時がここに。なんで、あんたまで包帯に血が滲んでんの。なんで、汗かいてんの。なんで、息乱してんの。




「なんで、」
「そりゃこっちのセリフだ。怪我人がなに抜け出してんですかコノヤロー」
「はは…、銀時もだよ」
「しっかしなんだよあの要塞、まじ死ぬかと思ったぜちくしょー」
「よく抜け出せたね」
「戻ったら何されるかわかったもんじゃねえよ」




月が明るくてわたしには眩しすぎた。あの日からあいつとわたし達はどこかおかしくて、違和感は感じていたんだ。ただ気付くのが遅すぎた。1番先生に執着していたのはあいつだって解っていたのに、遅すぎた。
深くえぐられた腹の傷にそっと触れるとズキンと痛んで何故だか凄く悲しくなった。海はもうすぐそこなのに、行かなきゃ、まだ、間に合うかもしれない。ヅラのパラシュートで落下していく瞬間、一瞬だけ見えた気がしたから。あいつの、高杉の、あのときの目が、失うものの重圧と失望で押し潰されそうなあの日の目が。パラシュートで落ちていくのと同時にわたしの意識も落ちていってしまったから定かではないけれど、たしかに見た気がするのだ。
遠くから聞こえる波の音が潮の香りを運んできた。




「…あいつのことはもう、あきらめろ」
「どうして」
「もう、あいつは俺らなんざ見てねえんだよ」
「……」
「そう睨むなって。高杉はもう、止まんねえんだ、あきらめろ」




銀時はかったるそうにひらひらーと手を上げて「けーるぞー」とわたしに背を向けた。
なんで、それでも同志なの、銀時は、あのときの思いは、どこに行ったの。もうほんとわけわかんないよ。銀時はあきらめろって言うけれど、わたしはあきらめられないよ。晋助は昔からずっとわたしのかけがえのない家族であって敵じゃないし、また昔のように戻って欲しい。無理だなんて最初からわかってる、けれどとりあえず動いておかないと何かもっと大事なものを失ってしまいそうで不安で仕方がないんだよ。だから、わたしは銀時を捩伏せてでも進んでやる。わたしの中のストッパーが一気に外れた気がした。




「歯ァ食いしばれや…銀時ィィィイ!!!」




その場から一歩下がり助走は多めに、傷の痛みも勿論忘れて足を必死に振り下ろす。ああそういえば速く走りたきゃ足を地面に着けるんじゃなくて、地面から足を離すイメージを持てって誰かが言ってたっけ。とりあえず目指すはドアホな銀髪野郎の背中だけ。一瞬だけ銀時の焦る顔が見えた気がしたけどもう止まらない。
ホワチャアあああ!という奇声と共にわたしは銀時に華麗な飛び蹴りをかましてやった。さらに、ぐぼへっ!と声をあげ、ぴくぴくと動く銀時の上にまたがり襟を掴んでぶんぶん揺する。




「ふざけんなよ!まだ間に合うかもしんないじゃんか!あいつだって、…晋助だって、苦しんでんのかもしんないじゃん!それを見捨てろって言うの!それでもてめえにはちゃんとキンタマついてんのかっ、この…天パ野郎が!!!」




黙って聞いていた銀時は突然わたしの手首を掴んで、痛いくらいに勢いよく引っ張った。対抗しようと思ったけれどびくともしない力に銀時は男なんだと改めて実感させられた。瞬間180度反転する世界、地面に強く背中を叩きつけられた。




「、いっ…」
「俺のほうが痛えんだよバカヤローが!それでもお前ほんとに女ですか!!ったく…、そんな泣き顔で怒鳴られても全然説得力ないっつーの!」
「う、うっさい」
「あんね、お前は一人じゃないの、わかる?ずっと俺らは一緒だったじゃねえかよ、辛い時も楽しい時もずっとだ。それをヅラもちゃんとわかってんだよ。昔っから高杉は言葉で言って分かるたまじゃねえってことぐらいお前も分かってんだろーが!!だから一人で解決しようとすんな、行くときは俺らも行く。けど今は時期じゃねえ、それぐらい分かれっつーんだよブアァァカ!!!!」
「………」
「……」
「…銀時、手首痛いよ…」




最後にぺしっとデコピンをされた。デコピンをされたおでこは少し痛かったけど苦痛じゃなかった。やっぱりいつまでたっても敵わないよ、銀時には。剣術だって人望だって同じ志を持って共に戦っていたときからずっと負けっぱなしだ。
銀時はわたしの上からどいて、立ち上がった。「おらよ」と差し出された手をわたしは掴むことが出来なかった。




「銀時、あのさ、…立てない」
「まじで」
「いや、だって傷痛むし腰抜かしちゃったし、…あー、すんません」
「仕方ねえなあ…ったくよ」




乗れ、と言って銀時はわたしの前にしゃがんで背を向けた。その背中に必死の思いでよじ登ると銀時は勢いよく立ち上がった。やっぱりわたしにとってとても居心地がいいこの場所。




「銀時、あのさ、…ありがとね」
「…けーるぞ」




銀時の背中はこんなにも広いものだったかなと銀髪から香る淡いシャンプーの匂いに酔いながら思った。いつでも側にいたのに気付かなかった。こんなにもこの人は暖かい。「おう」と小さく呟いた赤い耳に、不覚にも心臓がきゅーっとなったのは誰にも言わないことにしよう。

ずっと見てきたのに、見られてることには気付かなかった。きっとこれからもずっと。





「あ」
「え、なに、急に立ち止まんないでよ」
「どうやら俺たちすげえことを忘れてたみたいだ」
「なんか忘れ……あ…」




少し先に見える志村家の扉の前には鬼がいた。笑顔の鬼がいた。金棒持った鬼がいた。金棒っていうか釘バット。目笑ってないよ妙ちゃん、笑顔で釘バット振り回す妙ちゃんシュールすぎるよ。そしてその鬼がゆっくりと、こちらを向い、た――


「「っぎゃあああああああ!!!」」


直後、傷の痛みも気にせず必死に逃げ回った二人が無惨な姿になったのは言うまでもない。


100123
鬼に金棒