short | ナノ






好きかと聞かれれば違うと答える。
嫌いかと聞かれれば違うと答える。


たとえば、この胸の奥に感情を作る機能があったとして、きっとそれを自分では制御できないと思う。味覚のように美味しいだとか不味いなんて明確にましてや両極端に分類出来やしないし、この空のように澄んだ色や濁った色など一概に分けることも無理だ。この胸の奥にうずくまる感情を一般的に名前で表すことなんて不可能なのではないか、とそう思うのだ。


諦めさせてくださいよ、とわたしの上司は歯を食いしばりながら小さく言った。だけど、そんな必死の言葉を彼の上司は許さなかった。待っている、とただ一言突きつけだけで、それがわたしの上司にとって嬉しかったのか悲しかったのかはわからなかったが、複雑な表情を浮かべていた。彼等がどんな気持ちでそんな会話をしたのかなんて誰にもわからない。


仕事の休憩時間にわたしは軍服のまま足早に病院へと向かった。病院の前の通りの近くには子供たちが遊ぶ広場があって、そこを通るたびに子供たちの走り回る声が聞こえてきた。きっと上司の病室からも自由に走る子供たちの姿が見えているはずだ。もちろん、わたしがやって来る姿も。



「…ちくしょう!」
「ハボック少尉」
「ちくしょう!動けよ!」
「ハボック少尉」
「動け!動け!動けよ…!」
「ハボック少尉」
「何でだよ…、何でいつまでたっても動いてくれねえんだよ!」
「ジャン」
「……っ」
「…リハビリを初めてからまだ日が浅いです。しっかり体を休めて下さい」



ごめん、と上司は腕を額の上に投げ出しうなだれた。皆のおかげで耐えられる、と言ってはいたがわたしは彼の弱さを知っている。
わたしが病室に入るとそこにいるのは少し目の赤い何食わぬ顔をした1人の男だ。ちゃんと病院食はきれいに平らげるし、減らず口も健在なのだが、いつも入院服の袖が濡れている。弱い部分を隠す必要などないとは思うのだけど隠していたいのなら、と聞きたてたりするような真似はしなかった。

けれど今日だけはいつもと様子が違った。リハビリから帰ってきたわたしの上司はいつもなら隠す弱さをさらけ出し、自分の足を何度も叩いたのだ。正直とても怖かった。ついに切れてしまった、極限状態に精神をやられてしまった、怖い、恐ろしい。痛みを感じない足を叩く度に痛むのは、感覚のない足ではなくきっと彼の胸の奥、歯を食いしばる度に傷付いていくのは、きっと麻痺した彼の心だ。


「痛みますか」
「痛いわけねえだろ…」
「心が痛みますか」
「……痛くねえよ」


でも貴方は苦しそうです、そんな言葉を飲み込んで花瓶の水を変えるために立ち上がった。苦しいなんて当たり前だ。どんなに手を伸ばしてもまだまだ届かない、まるで蟻地獄のような場所に彼はいるのだから。出来ることならわたしが代わってあげたい。
本来ならわたしがここに寝て、苦しんで、苦痛に耐えてるはずだったのに、それを…、わたしは…!あのとき、わたしが、油断が、油断…してなかったら、ジャンは…!


「余計なこと考えてるだろ」
「あ……、いえ…」
「俺は後悔なんてしてないからな」
「でも…!」
「…もし、心が痛いっつったらお前どうする」
「どういう、意味でしょうか」
「……俺のそばにいてくれるか」
「何を、今更!地獄の果てまでお供致します、」




この感情に名前を下さい

090823