テニスの王子様 [LOG] | ナノ
惑わせてみたい 2


「結婚を前提に付き合わねえかって言うのが今日最後の仕事だ」

その言葉が本当に最後の仕事だったらしく、跡部は返事をしない私に呆れることもなく「お先に」と言って帰った。
お陰で静まり返ったこのフロア、私のキーボードを叩く音だけが響く。但し、仕事は進んでいない。タイプミスが相次いでずっとバックスペースを押しまくっている状態だ。

何を、考えてるんだか。

私もだけど...跡部もだ。何を考えてるんだろう。
どんどん劣化して賞味期限も消費期限もぎりぎりの私を捕まえて何になるっていうんだろうか。
確かに、派遣の子たちは若いよ。どちらかといえば跡部は好きじゃないとは思うけど、中には逸材が紛れこんでいるとも限らない。彼女たちは原石だ。磨けば跡部の御眼鏡に適う相手だって居るかもしれない。多分、だけど。

本当に、何を考えてるんだか、だ。

パソコン用眼鏡を外して疲れ目を擦って...こんなのが良いとか変わってる。
あの後輩くんも然りだ。何を好き好んで私にあんなことを言ったのか分からない。最近ではあからさまに避けられてるんだけど。

「.........はあ」

ダメだ。もう進まない。今日は無理だ。
椅子の背もたれがバキッと音を立てるくらいに背伸びをして、パソコンをシャットダウン、眼鏡を外す。
タイムカードはすでに定時で押しておいたからサービス残業ってやつ。まあ、夜にすることもないからこれはこれで時間潰しになる。

さて、帰る準備でもしようか。
と立ち上がって振り返れば、そこに跡部はいた。

「お疲れ」
「.........帰ったんじゃなかったの?」
「帰るとは言ってない。帰る準備はしたがな」

.........ああ、私服だわね。でも、最後の会話から結構時間は経ってる。

「ずっと、そこに居たわけ?」
「交渉途中だったろ?待たせてもらった」
「交渉、ねえ...」

結婚を前提に、のやつ。

「まあいい。先に着替えて来いよ。そのまま帰るわけじゃないだろ?」
「じゃあ着替えて来る」
「ああ」

この男、何処まで本気なんだろう。
長いこと同期同僚として一緒に仕事をして来たけど、この男ほど意味の分からない存在は無かった。大企業の御曹司だって聞いたのだって数年前で、それまではただただ女性社員に人気のある人物だとしか思わなかった。仕事は出来る男だし、容姿もダントツで良いのは確かだったし。それでも誰かとどうだって噂が社内で流れなかったのは婚約者がどうの、政略結婚の予定がどうのって(風の噂ではあったけど)あったからだ。

それなのに、何を言ってるんだろうと冷静に思う。
正直、その言葉は頭をぐるぐるしたけど先は何も見えなかった。先が見えないってことは将来のビジョンが浮かばないってこと。
普通だったら、この人と結婚したら...みたいなことを自然と考えられると思うけど、彼の場合は未来の「み」の字も出て来なかった。つまりそれは...無理なやつってことだと思う。

「.........お待たせ」
「ああ。お前、飯食うだろ?奢る」
「いや、その前に交渉を、」
「決裂させる気だろ?そうはいかねえ。飯食いながら話そう」
「.........本気?」
「本気だが?」

何を言ってるんだ?みたいな顔で返事されてしまった......

「馬鹿言ってるつもりはねえよ。本気だ」
「.........そう」
「だから飯食いに行くぞ」

と、この男は強引に私の手を取って歩き出した。
劣化して賞味期限も消費期限もぎりぎりの私に機能しているかどうかも分からない胸が、久しぶりに高鳴ったのにすぐに気付いた。


2016.06.10.
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