昔から写真が嫌いだった。一般的な中流家庭に生まれた私は両親からの慈愛に満ちた愛情のなかで育ち、月日が経つにつれ成長した。仲のいい友達もいて、時には恋もしたことがある。学校行事の一環として修学旅行にも行ったし、写真もたくさん撮ってもらった。だから私も数枚は写っていたけれど、結局いつも一枚も買うことはなかった。友達がせっかくの思い出なのに、とため息を漏らすその隣で私は曖昧に笑っている。どうして買わないの、と聞かれたときも同じように笑ってみせた。


「なまえちゃんお疲れ」


突然ひんやりと汗をかいたボトルが私の頬に密着し、無理矢理にも思考は中断された。ひゃ、と思わず叫びそうになった口を咄嗟にてのひらで塞ぐ。張り付いた数滴の水が、わずかな体温を含んで滑り落ちた。鮮やかな黄色いパッケージが視界の端に映り込む。小さな泡が無数に弾けていた。


「先生の奢りだってさ。まだもらってなかったよね」


そう言って私にボトルを手渡した山崎くんは、ワイシャツの首もとを掴んではばさばさと空気を送っていた。余程暑いのだろう。ほんのりと香る淡い汗の匂いは、ぬるい熱をもっていた。制汗剤の科学的な匂いは全くしない。


「ったく先生も人使いが荒いよ。クラス分のジュース預けて配ってこいなんて言うくせに、自分は職員室でコーヒー飲んでるんだからさ」


校内に散らばったクラスメート全員を探す俺のことも考えろよ、と山崎くんはひとり愚痴る。液体の入ったクーラーボックスは重たいはずだから、男子と言えどもかなりの重労働になるだろう。文化祭の準備に追われている私たちは、各自の仕事をこなしているためか教室にいるクラスメートは私を含め五人にも満たなかった。部活の出し物がある生徒はグラウンドや体育館に。音楽室ではバンドの練習をしているだろうし、看板作りのため美術室にいる女生徒など、皆散り散りになっている。

山崎くんは自分のボトルのキャップを開けると、しゅわしゅわと弾ける炭酸を一気に喉に流し込んだ。少し長めの耳にかかる髪の毛が、汗でしっとりと濡れている。じろじろ見るのは失礼だと分かっていても、そこから目が離せない。顔、赤くなってないかな。大丈夫かな。上下に動く喉仏を眺めながら、私も一口だけジュースを飲んだ。


「あの、山崎くんは持ち場離れても大丈夫なの?」
「大丈夫もなにも。土方さんは買い出し中だし、近藤さんはストーカー。沖田さんに至っては悠々と昼寝してるから」


トップがいないとなかなか纏まらないんだよ、と山崎くんは大袈裟に肩を落とした。大変そうだなあと頭の片隅で思いながら労いの言葉をかけてあげれば、山崎くんは気恥ずかしそうに笑っていた。人のいい彼のことだから、きっと残してきた後輩たちには仕事を指示してきたのだろう。何かと苦労が多いらしい山崎くんだけれども、心なしかその障害ですらも楽しんでいるように見えて、私はちょっぴり羨ましく感じた。


「そういやなまえちゃんは休憩中?」
「え、あ、うん。少し疲れちゃって」


私にジュースを配り終えた山崎くんは、きっと他の子達を探しに行くのだろう。そう思っていた矢先に山崎くんが私に話を振るものだから、想定外の出来事に少し言葉がつっかえてしまった。どうしよう、口籠ってしまった。おかしな子だと思われていないといいのだけれど。ここに居座るつもりらしい山崎くんは、近くの椅子を引き寄せてどかりとそこに座ってしまった。もちろんこんな展開になることなど欠片も考えていなかった私は、慌てて放り投げていた布やらを取り出してみる。せめて手だけでも動かしていないと落ち着かない。まさか山崎くんと二人だけで話すことになるなんて。どきどきと高鳴る鼓動が耳の裏から聞こえてきそうで、私の心臓は保つのかと不安になった。


「それ何?」
「あ、えっと、これはダンスに出る子達の衣装に着けるリボンになるの」
「リボン?」
「うん。この布の中に綿を詰めて、縫ったあとにこうやって金具をつければ…」
「うわ、本当だ」


丁度完成間近だったリボンに金具をつけて山崎くんに手渡せば、すごいと言って誉めてくれた。手芸はある程度ならできるから、得意ではないけれどそれとなく形にすることは可能だ。ただ売り物とは違い、よく見れば縫い目も形もアシンメトリーである。我ながら不器用だなあと内心で呆れた。山崎くんはすごいと言って褒めてくれたが、この類いのものは慣れさえすれば誰だって作れるのだ。


「ああ、そう言えばなまえちゃんにもうひとつ渡すものがあったんだ」


ちくちくとまた新たに布切れを縫い始めた私の隣で、山崎くんが思い出したように何かを取り出した。つるりとした四角い面に光が反射して、鮮やかな虹色が浮かび上がる。それは私の一番嫌いなものだった。


「まだもらってなかったと思って」


そう言って差し出された写真は、先日の体育祭最終日にクラス全員で撮ったものだった。はしゃぐ男子達はとても楽しそうで、みんな笑顔でピースをつくっている。端の方では私も仲の良い友達と一緒に写っていた。

にこにこと人柄の良さそうな笑顔で山崎くんは写真を私に差し出した。いつもならここで友達がすかさず助け船を出してくれるのだが、生憎ひとりで作業をしていた私の周りには仲の良い友達なんているはずもない。山崎くんはなかなか受け取ろうとしない私を不思議そうに見つめていた。どうしよう。写真、いらないんだけどなあ。


「あれ、もう持ってる?」
「え、いや、そういう訳じゃ…」


私の返事にますます疑問気な顔をした山崎くんに、慌てふためく私。もらっていると適当に嘘をついてしまえば良かったものを、馬鹿正直に答えてしまったのは何故。一気に後悔が押し寄せる。本当に今日はついてない。うだるような暑さに頭が上手く回らない。山崎くんにも変な人だと思われたに違いなかった。ああもう、私の阿呆。


「もしかしてなまえちゃん、写真いらなかった?」
「…うん。その、ごめんね」


いつまでたっても受け取る素振りを見せない私に、勘のいい山崎くんは気が付いたみたいだ。申し訳なさそうに眉を下げて写真を引っ込める山崎くんを見ていると、どことなく罪悪感が湧いてくる。せっかく私のために届けようとしてくれたのに、それを一言で突っぱねてしまったのだ。なんて失礼な話なのだろう。口下手にも程があると、私は自分を呪いたくなった。


「本当にごめん」











木枯らしの吹き荒ぶ十月中旬。あれだけ準備に時間をかけた文化祭もたった二日間で終了し、今では私たちも普段と変わらない生活を送っている。特に接点のなかった私と山崎くんは、あれから話すこともなくなった。清々しく移り変わる季節とは裏腹に、私の心はどれだけ時間が過ぎても晴れることはない。放課後の廊下を歩く私の生足に絡む空気の鋭さに、私ははっきりと秋の匂いを感じた。

そしてそんな私の腕の中には山崎くんのノートが一冊、大人しく抱かれている。部活中であろう山崎くんに渡すようにと担任に言われたのだ。相も変わらず生徒を顎で扱う先生には多少の苛立ちを覚える。特に見たいテレビや寄り道する予定があったわけではないが、いくらあっても足りない時間を有意義につかいたいと思う学生は私だけではないはずだ。山崎くんの大切なノートだったから文句は言わないが、これが単なる雑用だとしたらとてもじゃないけど耐えられない。

山崎くんが所属する剣道部の道場に到着し、ひとつ深呼吸をする。小さい手鏡で前髪の乱れを直し、制服もきっちり整えてから道場の扉を開いた。むわっと汗独特の匂いが全身を覆い、あの夏の日を思い出す。以前は山崎くんに失礼なことばかり言ってしまった。今度こそちゃんと、話すことができるだろうか。


「山崎くんは、いませんか」


近くにいた男子部員に声を掛けると、親切にも山崎くんを呼んできてくれた。襟足の長い髪をひとつに結った山崎くんは、なんだかいつもと違う人みたい。おまけに部活中は制服も着ていないから、新しい山崎くんの一面を見ることができたみたいで私はとても嬉しかった。


「どうかしたの?」


山崎くんのすこし高いテノールの声が、私の耳に響く。自然と視線が交わって、なんだか急に恥ずかしくなってしまった私は下を向いてしまう。山崎くんは練習を中断してまで私のために時間をつくってくれたのに、早くノートを渡してここを出ないと部活の邪魔になってしまうのに、なぜか最初の一言が出てこない。うろうろと視線をさ迷わせ、ぱくぱくと口を動かす私に気付いたのか、山崎くんは私の腕の中を指差した。


「もしかしてそれって俺の?」
「あ、えと、先生が持っていけって」
「あちゃー、放課後取りに来いって言われてたのすっかり忘れてた…」


頭をがしがし掻いている山崎くんに、そっとノートを手渡す。俺のせいでわざわざごめん、と何度も謝る山崎くんを見ながら、なんだか私達は謝ってばかりだと思った。


「本当に気にしなくて大丈夫だから」
「でも俺のせいで迷惑かけちゃったし」
「迷惑だなんて思ってないよ」
「いや、なまえちゃんは優しいからそう言ってくれるけど…」


私は全く気になんてしていないのに、山崎くんはさっきからずっと謝り続けている。オウム返しのような返答に可笑しくなってしまった私は、思わず笑みを溢してしまった。すると、つらつらと謝罪の言葉を並べていた山崎くんの声がふと途切れた。どうしたのだろうと思い山崎くんを見ると、少しだけ驚いた顔をしているようだった。


「…やっぱりなまえちゃんは笑ってる方が絶対に可愛いよ」


表情を崩した山崎くんにそう言われ、今度は私が驚いてしまう番だった。あまりにびっくりして動けない私に、山崎くんが慌てながら弁解をし始める。


「文化祭のときに撮った写真、どれを見てもなかなかなまえちゃんは写ってないし、写ってる写真も全部顔が硬くてさ。今間近で見て改めて思ったんだけど、そうやって笑ってる方がずっと良いよ」


そう言いたかったんだけど、と言葉を詰まらせる山崎くんはちょっぴり照れているようで、私まで恥ずかしくなってくる。確かに写真の苦手な私は撮影のときも笑えた試しがないし、そもそも写真に写ることが事態が少ないのだ。山崎くんに見られるくらいならもっと笑顔の練習でもしておけばよかったと、今更ながら後悔した。


「とにかくノート本当に助かったよ。ありがとう」
「あっ、」
「じゃあ俺部活があるから!」


こちらこそ、と呟きかけた唇が不格好に開いたまま、私の言葉を遮るようにして山崎くんは部活に戻ってしまった。お礼、ちゃんと言いたかったな。生まれて初めて可愛いと誉められて、しかもそれが思いを寄せている人で、お世辞だとしても本当に嬉しかった。ノートを渡してしまった私の手元は寂しくて、竹刀の交わりあう乾いた音だけが聞こえる。

これからは笑顔で写真に写ってみよう。もしかしたら口が引きつってしまって、不細工な顔になってしまうかもしれない。そしたら山崎くんに写真を見せて、二人で変な顔だねって笑ってしまえばいい。そして、もしいつか自然な笑顔で写ることができたなら、その時は山崎くんに私の気持ちを伝えたい。好きな人の一言でころっと変わってしまった自分の気持ちに苦笑しながらも、どこかすっきりとした気分だった。


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