どんなに陳腐な言葉でも、彼女の口から出た途端に特別な意味を含んでいるかのように感じられる。市の艶を帯びたうつくしい声が好きだった。


「大好きだったのよ」


私のからだが市を呼ぶ。




○●




「市は素敵だと思うわ」


ある晴れた日の八つ時に、白くふっくらとした饅頭を間に私たちは座っていた。漆塗りの湯呑みからは細い湯気がいくつもあがっていて、猫舌の私はまだ飲めない。ひさしから漏れだした光が眩しくて、私は思わず目を細めた。微風すらないのにゆらゆらと揺らめく湯気から目を離して、隣の市を見やる。枝にとまった小鳥を眺めていたはずの市はじっとこちらを見ていた。


「その黒茶色の髪も瞳も、薄い唇もまあるい爪も、みんな綺麗」


彼女らしいうっすらとした笑みを浮かべながら、呼吸をおいてそう言った。市の髪が肩からひと房滑り落ちる。目もとを縁取る長い睫毛を見て、それは違うと私は思った。闇夜を連想させるかのようにみずみずしく流れる市の黒髪は、乾燥とは無縁の話なのだろう。それに比べて私の髪には茶色が混じり、毛先に近づくほど絡まりながら垂れている。瞳も心なしかくすんでいるように見えた。私の肌は手入れをしているにも関わらず、所々皮がむけて女子にしては汚い。市はといえば、季節を問わずして真白くなめらかできめ細やかな状態をいつまでも保っていた。さかむけだってない。私よりも格段に綺麗だ。


「市は世辞を言うのが上手ね」


多少の皮肉も込めながらため息をつけば、市はまたちいさく微笑んだ。長い指を口元でわずかに曲げる仕草でさえも、姫様と呼べるにふさわしく優雅で気品さがあった。私は盆の上にふたつ置いてあった饅頭のうち、ひとつを手に取り一口で食べた。


「あなたはいつも、自分のことを卑下にするのね」


市も私に習うようにして饅頭を口にした。甘い小豆はこし餡らしく、とろけるような舌触りがする。口いっぱいに頬張る私とは真逆に、市は並びの良い歯で一生懸命咀嚼していた。その様子はまるで虎と兎が共に食事をしているかのようだ。あまりの異質さに私は軽い目眩を覚えた。兎が虎に近付けば、いとも容易く食べられてしまうのに。それが時間を共に過ごすだけでなく、唯一警戒心のゆるむ食事を一緒にするなんて。ごくりと饅頭と唾を飲み込めば、気管の中を通っていくのを感じたような気がした。


「市は何も知らないのでしょう。私は出来損ないなのよ」


ぬるくなった湯呑みにそっと口をつける。視界の端にたおやかな表情で微笑む市の姿が映った。私は思わず目を伏せながら渋めのお茶をすする。私もいつか市を喰らうてしまうのだろうか。




○●




「市はいる?」


明くる日の昼、私はまた市に会うため小谷城を訪れた。太陽がちょうど頭の真上にあって、今日も痛いほど日差しが強い。立派な門の前にはいつもと同じ門番が立っていて、私は軽く会釈をした。ここに通うようになってしばらく経つからか、門番とはすでに顔馴染みである。二三言葉を交えたあと私は門番に問うた。


「申し訳ありませぬが、お市様は只今留守にございます」
「何故」
「濃姫様の元にて花嫁修行かと」


門番は少し恥ずかしそうに呟いた。心なしか顔もほころんでいるように見える。城主である浅井長政との婚儀を終えた市は、こうして濃姫のご指導を受けに城を離れることがよくあった。料理や裁縫などの家事を教わっているのだと、以前話していたのを覚えている。これまでは偶然にも市の外出とは被らなかったが、今日は運が悪かったようだ。

用事で市がいないのならば小谷城にいても仕方がない。また日を改めて来ることにしよう。そう思った私は礼を言い、引き返そうとしたが、客間で待っていてはどうかと門番に引き止められた。断ろうかと迷ったが、特に行く宛のない私は暇である。それにせっかく市に会いにここまで来たのだ。少しばかり邪魔しても罰は当たらないだろうと、私は門番の言葉に甘えることにした。市はあと小一時間程で帰ってくると門番は話していた。




○●




「遅くなってごめんなさい」


客間で年配の侍女と一緒にお喋りをしていると、ようやっと市が現れた。息が切れていて、髪も少し乱れている。侍女は市に深々と頭を下げると、私にもぺこりとお辞儀をして仕事へと戻って行った。私は何度も謝る市を制し、懐から櫛を取り出して市の髪を梳く。絡まる気配など微塵もないその髪は、まさに絹のようだった。


「市ね今日は舞を教わったの」
「舞を?それは珍しいわね」
「いつもお料理ばかりじゃ、飽きるでしょうって」


音曲にあわせて身体を動かすのはとても楽しかったらしく、市は嬉々として私にそのことを話していた。感情の起伏が緩やかな彼女だが、紡がれる言葉のひとつひとつが弾んでいるように聞こえるのは気のせいではないはずだ。しばらく市の話に耳を傾けていれば、あのね、と気弱でか細い声が聞こえ、懇願するような瞳が私を映し出した。突然どうしたと言うのだろうか。


「あのね、市ね、お願いがあるの」
「私でよければ聞くわ」
「その…、よかったら、今夜は泊まっていかない?」


ぎゅう、と私の手を包み込むようにして握りしめながら市は私に請うた。もっとたくさんお話がしたいの、市はあなたの話が聞きたいの、と。

私には断る理由などあるはずもなく、不安そうな面持ちの市に「そうさせてもらうわ」と承諾の意を示せば、市はまるで花が咲いたような笑顔を見せてくれた。嬉しそうな市を見ていると私まで心が温かくなるような気がしたが、彼女の意図が全く分からないのもまた事実である。つまらない私の話を聞いたって何の得にもならないのに、彼女は聞きたいと願う。ましてや城に泊まって欲しいと頼むなど、私には彼女の思考が到底理解できなかった。


「市、長政さまに知らせてくるね」


食事や寝床の都合があるのか、市は私にここで待っているよう言い残し、客間を後にした。話し相手のいなくなってしまった私はひとり大人しく座しているしかない。


「馬鹿な娘」


冷たい刃物のような言葉が、自然と口先から零れ落ちた。城内を隅から隅まで舐め回すように調べたいと疼く足を、私は理性でじっと抑えつける。今日までの努力を水の泡に変えるなど、絶対にしたくはないからだ。その時がくるまで堪え忍ぶのことも必要だが、今夜が潮時であることに間違いはなかった。遂に私の努力が実るのだ。口元が無意識に卑しくつり上がるのを、一体誰が止めることなどできようか。否、できはしないだろう。ずきりと痛んだ胸の奥に、私は見て見ぬふりをした。


その夜、ついに虎は牙を剥きました。




●●




「市、眠たいのでしょう」


二人で夕餉を食べ、湯浴みを済まし、仲良く並んだ布団に潜りながらお喋りをしていると、市が頻繁に瞳を擦り始めた。どうやら彼女の体内時計がおねむの時間を告げているらしい。


「大丈夫よ。市はもっとたくさんお話がしたいの」
「駄目。もう寝ないと身体に毒だわ」
「でも、」
「明日にしましょう。だから今夜は無理をしないで」


頭を撫でながら諭すように言い聞かせれば、渋々ながらも市は了承し、布団をたぐりよせて静かに瞳を閉じた。私は市に背を向けて、布の掠れる音ひとつしない空間でじっと息を潜める。灯火の消えてしまった部屋は暗かったが、夜目がきくように育てられてきた私には何の問題もない。懐にある確かな重さを感じながら、寝入ったふりをした。市の意識を探ればまだわずかに残っているようで、ふわふわとした声色で私に話しかけてくる。


「…市はあなたのこと、本当にとても素敵なひとだと思うの」


今更な話だな。私はそう思った。


「あなたは自分に自信がないようだし、周りよりも劣っていると常々話しているわ」


…そうだ、私は誰よりも必要とされていない。技能や知力、どれを比べても仲間内で一番微力なのはこの私である。今回の仕事だって、これ以上失敗したら只事では済まされないわよ。


「でも市、そうは思わないの。誰よりも気兼ねなく一緒にいれて、楽しいお話を聞かせてくれるのは、あなたしかいないもの」


胸中の動揺を悟られないよう、私はぎゅっと目をつむった。苦しいほどに気持ちが分かる。市と私の世界は酷く狭かった。織田信長を兄にもつ市は誰も知らないところでいつも苦労し、どうしても周囲との壁を感じていたのだろう。私だって同じだ。市と違い他人が敬うような存在も、褒め称えられるような容姿も持ち得てはいない。だが埋めようのない己の未熟さ故に他人から避けられ、蔑まれてきた。私はたった独りなのだ。


「だから市、あなたのこと が 」


市の言葉が急に途切れ、代わりに安らかな寝息が聞こえてきた。どうやら眠ってしまったみたいだ。ゆっくりと起き上がり、自分の頭を引っ掻く。どうしても焦燥感が拭いきれない。市の最後の言葉が聞きたかったと思う私は、想像以上に彼女に絆されてしまっているようだ。以前は櫛を入れていた懐から、慈悲もなく命を奪う短刀を取り出した。胸が痛い。心が苦しい。今にも悶絶してしまいそうだ。

同情されている、最初のうちはそんな気もしたが、それは違うことを裏付ける事実が私達にはあったのだ。お互いにしか決して分かりあえない、同情とは似て非なるそれは共感であった。この期に及んで感情が殺せないなんて、私にこの職は相当不向きだ。だが今夜実行に移さなければ、いずれ身元も暴かれてしまうだろう。現に平然と城を出入りする私を怪しんでいる者は少なくないはずだ。だからと言って任務も果たさず帰ってしまえば、今度こそ用無しとして処分されてしまうのは明らかであった。

私は殺されたくない。まだこの世に命あるものとして生きていたい。毎日市と八つ時を共にして、可愛らしい笑顔がたくさん見たかった。市に似合う着物を身繕って、綺麗な髪には簪もさしてあげたかった。花嫁修業のお手伝いに、二人で料理をしてみたかった。市が望むなら、いつまでもずっと話を聞かせてあげたかった。短刀を握る手が、自然と震えてしまう。だけど私には義務がある。私は与えられた任務を遂行しなければならないのだ。私がこの手で、市を。


「市、あなただけだったわ」


生涯でたった一人、私を私として見てくれたひとは。頬を伝う涙は、哀しみに濡れてはいなかった。嬉しいのよ。私。


「あなたのことが、大好きだったのよ」




○○




辺り一面に咲き誇る彼岸花のその中で、ぽつりと佇む小さな石。女がそっと指を這わせれば、それに驚いた小さな虫達が石から一斉に飛び立った。広く青い空に溶けて見えなくなる。


大切だったひとよ
私はあの日の事を謝りにきました
あなたの名すら刻まれていない
大きな石を立てただけの墓なので
少し窮屈かもしれません
だけど、すこしだけ聞いてください


本当にごめんなさい
忘れていたわけではありません
忘れたかったわけでもありません
あなたがいなくなってしまったことに
最近ようやっと気が付いたのです

そしてあなたは私のことを
たくさん好きだと言ってくれました
綺麗だとたくさん誉めてくれました
あなたと一緒に話していると
とても居心地がよかったのです

なのに
それなのに
何故私にもあなたが好きだと
言わせてくれなかったのでしょう


そっと墓石から指を離し、いつの日か頬張った饅頭を丁寧に皿に乗せ、ふたつだけ供えた。ゆるりと風が吹き抜けて彼岸花がさわさわと揺れる。鳥の羽ばたく音が空を駆け巡った。そのとき女は何を思うたか、供えた饅頭のひとつを手に取った。彼女は嗚咽ひとつ漏らさず泣きながら、白い饅頭を咀嚼する。頭上では鷹の鳴く声が遥か遠くに聞こえた。あなたはもういなくなってしまったのだ。


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