必然的にいたむ






折原臨也は三つほど溜息をついた。もしかしたら息が切れていただけかもしれない。しかし、彼はそれが溜息であることを認めようと思った。あまりにも熱く、湿り気を帯びた溜息だった。

「………」

池袋の灰色をした路地裏でついに彼はうずくまった。何だって持っていそうな両腕で、ただ膝を抱えるので精一杯だった。彼の両手では、あまりに抱えきれない思いが、その熱い体の中をぐるぐると巡っている。

言い訳が出来るなら、いくつか言っておきたい。まずは耐えきれなかったのだ。とりあえずは体勢が。次いで、日頃厳しく虐げられた心が、その状況に甘えたのだ。一度目は事故だ。けれども、その次はそうではない。
だけど、だけど


「…シズちゃん」


一度目が事故であったことを認めたくないと思った。二度目でそれを覆そうと思った。けれども、過去に起こったことは、未来永劫変わらない唯一の絶対だ。それを覆すことなんて自分に出来るはずがない。彼の、初めてあんなにも近くで眺めた獣色の瞳が、それを如実に語っていた。
自分にはそれが何よりも堪えられなかった。許せるはずがなかった。
痛む頬の火傷を押さえて折原臨也は立ち上がった。前だけを見据えて、煙草の煙を探して。



池袋北口の吹き溜まり共が異様にざわついていた。ここに居る人間は老若男女様々だ。ただ、一様に時間と身体を持て余し、自分に見合うものなんていう思い上がりをもってここで何かを待っている。若しくは単純に誰かとの待ち合わせで相手を待っている。そんな彼らが一様に、それも同一の話題によってざわめく。つい先程までは水を打ったように、寧ろ、水を打つことさえ憚られるほどの静けさがその場を支配していたのだが(さらに言うならば、その静けさは人の形を成していたのだが)それが一歩一歩北口を離れ、棒のように細長い体が、糸のように見えるまで遠ざかると、人々の口は待ちきれなかったとでもいうように今見た驚きを爆発させた。携帯電話を取り出して連絡をとるもの、駅へ入る階段を滑るように降りるもの、こっそりと静けさを辿ろうとする者。とにかく様々な混乱が、いつもはただ個別の人間が滞留しているだけの北口に、同一の話題によって駆け抜けた。人間誰しも、むしろ、生きている者ならば、この混乱に浮足立たぬものはいない。そういう、必然性をはらんだ混乱であった。



浮足立つ人の群れに反して、自分の足は重かった。先程落とした煙草の代わりにケースから一本取り出して火を着けようとするのだが、風速に負けて火が着かない。仕方無しに歩みを止めて火を着けると、再び歩きだす気には到底なれなかった。近くにあったガードレールに腰かけて、俯き、息を吸う。煙草の煙は苦く、重く、舌の上にいやらしく残り、不快感に唾を吐きすてた。しかし、舌先に残る不快感はなくならなかった。当たり前だ。あんなにも気持ちの悪いものを絡めたのだから。

男にキスをされた。たったこれだけのことで歩くのもままならない。たったそれだけのことに、自分はどれ程の幻想を抱いていたのだろう。人の肌はもっと温かいもので、いっそ自分を溶かすほどに熱いのだろうと思っていた。抱きしめる腕は、身じろぎ一つ出来ないほどに固いのだとおもっていた。そんなことはなかった。そんな幸せはやはり、幻想でしかなかった。


思い出したくもないのに、整理が必要だと、頭は勝手に状況を再現する。本当に嫌になるほど事細かに覚えているものだ。
新宿から身の程もわきまえずに飛んでくるノミをつまみ上げて、いままさに投げ飛ばそうと振りかぶった時だった。軌道の先にはのんびりと歩く老夫婦がいた。ノミが潰れることにはなんの躊躇いもないが(むしろいままさにその先にあるコンクリートにぶつけてやって、べったりと張り付いて死ぬことを欲している)しかし、そんな力で投げつければ死ぬのはこの男ではなくあの二人のうちのどちらかであろう。それは可哀相だ、いくらなんでも酷すぎる。それに、もっと瞬間的にその二人からは死のにおいが直感として感じられた。だから、大きく振りかぶって投げつけようとした、その動作に途中でストップをかけた。しかし遅すぎた。力は既に自分から離れかけている所で、単純に停止することはできなかった。だから、方向を変えた。投げつける方向を自分に向かわせた。
虫がたたきつけられたのは、コンクリートにも強度の劣らない自分の胸の上だ。鎖骨のところに丁度頭蓋骨が当たったらしく、存外に硬い頭突きを喰らったようなかんじだ。痛い。たたきつける方向をやはり間違えた。コンクリート並の強度があったとしてもその下には多少の痛覚も持ち合わせている。普段感覚しづらい痛みを知覚したためもあって、怒りは瞬間的に沸き立った。

余計な状況を次々に思い出しているのは、一体何と言うことだろうか。本当に思い出したくもないし、考えたくもないのに。文句を言おうと俯いたついでに自分と相手の唇が、その奥にある歯の音をたててぶつかったことを、何故思い出さなければならないのか。しかし、ここまでならば純然たる事故にすぎなかったと、今ならば思う。思える。ただ、その時はの自分は、キスというものがこんなに痛くて、硬い音をたてるものなのかということにただ愕然とするばかりだった。呆けてしまった。口唇が切れていることにも気がつかなかったくせに、触れたところが痛い、痛いと感じた。涙さえうかべていたかもしれない。鎖骨に頭突きをくらったことよりずっとずっと唇がいたかった。心が痛かったのだ。目の前がいくらか明瞭になって相手の顔を認識すると、それはやはり折原臨也の顔をしていた。自分はやはり折原臨也とキスをしたのだ。それまでは認めたくない気持ちで必死に目を逸らしていた事実だったのに。
やはり、自分には人と触れ合うことに、愛されることに、そういった類の行為に馬鹿なほどの憧れがあったのだろう。愛し、愛される幸福の上に、キスがあるはずだった。実際にはただの不幸な事故で事足りる出来事だったのに。

あまりに痛くて、呆けて、全身から力が抜けた。相手を掴んでいた首元の手もだらりと下がってしまって、短くなった灰ごと煙草が落ちた。それでやっと、相手が火傷をしただろうと思い至った。そんな心配をするような相手ではないことに思い至るまでの時間は与えられていなかった。目の前が真っ白になった。抱きしめられていると気がついたのは冷たい唇にキスをされたのだと気づいたのよりも遅かった。気がついて、だけれど何をしたらいいかわからなくて、ぬめる舌を必死に押し返そうとした。絡めるつもりなんて全くなかったのに、舌は自分の舌を更に追って、きつく吸い上げた。ゾクリと鳥肌をたてる背中には腕がきつく回されて、自分が逃げようと身じろぐたびに、逃がすまいと体を密着させる。しかし、触れた肌は冷たかった。当たり前だ。この時期はもうすでに屋外は寒くて、体の芯まで冷え切っている。鼻の奥がツンと痛んで涙が出た。こんなときにでる涙まで痛いのだと、この時に初めて知った。
冷たい涙が頬を伝って、自分を手放したのは相手のほうだった。光彩だけが唯一黒く染められていない男の、そこさえも人間の証明のように赤く染め上げられていた。水滴の伝った跡が頬に筋を残している。自分の涙だ。しきりに頬を擦っている。自分も涙を拭った。横から感じた風圧は、相手が走り去ったということだろう。もう一度目を開いた時にその姿は既になかった。


自分は、あの男とキスをした。抱いていたやわらかな幻想はグシャグシャに潰された。固い体を冷たい体で抱かれた。痛む心を冷えたくちびるでくちづけられた。ぬめる舌が、自分を引っ張り出して、絡めとって、何もできなくした。気持ちが悪かった。しかし、それは確かにキス以外の何でもなかった。

一体何だというのか。一度目は確かに事故だった。二度目は確かにキスだった。
事故で粉々になった心は、二度目は確かにキスだったのだと主張する。まるでそれが唯一のよりどころのようにそれに縋ろうとする。冗談じゃない。自分と相手とのあいだには何もない。キスの土壌となる愛などない。何も無いはずだ。自分は到底できないが、相手は何もないところからでも平気で舌を出す男なのだ。そんな空虚な悪意の剣先に、わざわざ絡められる筋合いなど無い。二度目のアレも、ただの事故だ。

口にくわえたままの煙草から白い灰がぼろりとおちた。まだ半分ほど残っていたが、もういい。気分が悪い。煙草を吐き出して、靴ですり潰せば、フィルターのみを残して煙草は散り散りになった。


「歩きたばこの上にポイ捨て?やっぱりサイテーだね。シズちゃん」


今一番見たくない顔だった。見たら殴るんじゃないかとすら思っていた。実際には顔を見た途端に体が固まってしまって動かなくなってしまったのだが。
ついさっきとなんら変わらない。どうしたらいいのか、なにができるというんだ。わからない。こんなふうにこの男の前でおろおろしているなんて、傷つけられてしまうに違いないのに。なのに体が動かないのだ。


「最低だよ。本当に最低」


臨也の手が頬に触れた。指先だけが触れるようなささやかな接触。その指は何度か目元を擦るとまた頬に戻って、右の頬を包み込んだ。やはり何も言えず、体も動かない。


「シズちゃん。さっきのは、事故なんかじゃないよ。絶対だ」


一歩、臨也が踏み出した。反対側の手がうなじを撫で上げる。冷たい指先が襟足で遊ぶ。視界が白い。臨也の肌のいろだ。赤や黒に染められていない、この男のほんとうの色は白なのかも知れなかった。


「事故なんていう偶然じゃないよ。こうなったのは必然だ。全部全部、シズちゃんのせいだよ」


赤い光彩が自分をきつく睨みつける。赤い目玉は、夜の獣の目をしている。うなじから首を撫でて下るざわめきを感じる。鳥肌が立つのはどうしようもない。いやにザワザワとする。その手が腰に回されても、離れようもないほどに密着させられても、そのせいで身動きできない。あの忌ま忌ましい力が体の中からくたりと抜け出る。


「目を閉じて。キスの時には、目を閉じるものだって決まってる」




まぶたを下ろして、視界がまっくらになると、やわらかな感触を感じた。それは期待したとおりに熱く、自分を溶かしてしまうだろう。これこそが、自分が望みつづけたキスだった。こんどこそ、自分は折原臨也とキスをした。







事故なんかじゃないんです
臨静は必然である

17.Nov.2010:トヨミ

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