「そういうこと」



 夕日に焼かれるアスファルトは、先ほど打ち水されて、湿気た空気が温度を奪っている。静雄は初めて打ち水の効果を知った。なるほど、湿度が上がるだけで何の効果があるのかと思っていたけれど、先人の教えは正しかったのだ。それは炎天下では微々たるものかもしれないが、斜陽のもとでは急速に空気を冷やしている。またあるいは土地柄かもしれない。寺社の庭の中というのはどんな季節でも一種異様な空気があって涼やかだ。キン、と張りつめた空気と、その中に跋扈する神聖とも人の欲望ともいえないもののドロドロとした薄気味の悪さだ。それは人の集まる祭りによって表面化する。がやがやとした空気のところどころにある犬の置物や、遠くに見える建物の鴟尾、くぐり抜ける門の暗がりになっていて明確に見えないところ。沢山の人の群れの中を歩いてもほんの些細なところに神様というには人懐っこい、妖怪というには邪心のなさすぎるものの存在を感じる。来たこともなかった土地に、そんなことから親しい感じを受ける。幼い頃に手を引かれて訪れた近所の些細な祭りの記憶と、不思議なものを通してここはつながっているのだ。

「あまり大きなお祭りではないけど、いいでしょう。」
「おう、やっぱり祭りっていいよな。にぎやかで楽しい。お前も楽しいか?」
「うん。たのしい。それとね、向こうでお坊さんたちが盆踊りの準備してるみたいだから見に行こう。」
「おう、行こう。」

 それは弟の存在も大きいかもしれない。父の手を左手に、右手に幽を連れて、幽の右手には母と、祭りのときは決まっていた。小さなころだったから、四人で並んで歩いても邪魔ではなかったし、それに手をつないでいなければは

ぐれてしまうからあの布陣は楽しいだけではなかったのだと静雄は感じる。弟から誘われてきた祭りは、池袋から車で一時間ほどの寺で行われていた。この圏内は都会であるけれど、どこか間延びしていてあくせくとした感覚が薄い。緑の多いせいかもしれないし、働く場所ではなくて眠るための場所であるからかもしれないし、どちらにせよ池袋で流れる、時間のきっちりとした緊張感が薄い。特に夜の時間の境目を超えるのが容易で、すべての厄介ごとは日が昇るまでに納めればいいというゆるやかさがどこかにある。祭りの雰囲気もそんなかんじで、夕日が赤くなり始めたから音楽をかけ始める、音楽がかかり始めたから出店の主人は鉄板を温め始める、それでは鉄板が温まるまで一服、といった具合である。緩やかな始まりを眺めつつ、きっと終わりも緩やかなのだろうと思った。

「兄さん何食べたい?」
「幽は?」
「りんごあめ食べたいな。」
「りんごあめは最後だな。浴衣汚れるし、ちゃんと食えないから、家に持って帰ろう。な、幽」
「うん。じゃあ、あんずあめにする。」

 きっと林檎飴も兄ほど丁寧に食べられたら本望だろうと幽は思う。食紅の入った飴に皹を入れながらかじりつく兄の白い歯を思い出す。赤い球形に口を大きく開いて、あふれる果汁を吸いながら、食紅は兄を汚す。白い歯に毒々しい赤色が付き、唇は腫れたように色づくのだ。林檎は種だけ残して跡形なく消える。魔法のような食べっぷりである。
 兄は皹を把握できないし、計算もできない。自分が噛り付いた箇所からどのように飴が落ちるのか知らないから、でも、飴をこぼすのをもったいなくおもうから、皿のない場所では林檎飴を食べたがらない。そういうところも含めて食べられる林檎飴が羨ましい。

「兄ちゃんもあんずあめ食べたい。あっつくて仕方ねーよ。」

 かくして二人は屋台でよく冷えた杏子飴を買う。店主とのじゃんけんで二つずつ飴をもらって、よく冷えたそれに機嫌もよかった。静雄は久しぶりに池袋最強や化け物としてではなくて平和島静雄として、あるいは幽の兄としてふるまっていることができて、幽も久しぶりに弟として、平和島幽としてふるまうことができた。ふるまう、というのもおかしいのかもしれないけれど、静雄の本質だとか幽の本質なんていうものは目に見えないか、またはもしかすると俗称こそそれに値するのかもしれない。だけれど兄弟の姿はそこにあるし、それぞれの本質なんて言うのはそこからも作られているのだから、それで十分である。

 だけれど、それに納得のいかない悪意が暗がりに紛れ込んでいた。彼は神よりもずっと人間というものに厳しくて、妖怪の類よりももっと邪だ。あるいは、神よりもずっと人間好きで、妖怪の類よりもずっと無垢なのかもしれない。彼はまさに人間だ。人間が浴衣を着て歩いている。からんと、下駄の鼻先に敷居が当たった。
 折原は、敷居を踏んだ。浴衣を着た歩幅ではわざわざ敷居をまたぐなど面倒でならない。



 祭りの夜はうつくしい。ぼんやりと灯篭に灯が燈って、人の波に光が揺れる。静雄の麦色の瞳にも炎が燈っているし、幽がそれを見つめる瞳にも炎が燈っている。現代において灯篭に火など入れない。けれど、その光を見る目には炎が燈るのだから、人は不思議だ。幽はよくしっているし、静雄も自分のことだけは知っている。炎は身の内にあるのだ。

 幽はもういっそ、すべて壊してやろうかとすら思ってしまった。あのやわらかな指でいかにも冷たい体を求めたのかと、色づいた唇で口づけを乞うたのかと、羞恥の中に身をなげてその体を差し出したのかと、いっそなじってしまいたい。そうまでして何が得たいのか、それは他の誰かに乞えば得難いものなどではなかっただろうに、どうして彼に求めたのか、こんなにも自分は愛してきただろうと言って、兄を燃やし尽くしてしまいたい。
 幽の面には全く変化がない。ただ夜風に髪が揺れて乾いた唇にひっかかったくらいだ。静雄はそれにさえ気が付かない。灯篭の灯りと櫓のまわりで踊る人々をいる。その中には入らないし、まず、それらの人間すら見えていないのかもしれない。橙がかった灯りが鼻や睫毛に影を落としている。光と影の中にいる静雄は誰の目から見ても美しい。あかりが赤みを見せる白い肌も、きっちり着込んだ浴衣の首元にできたほんの僅かの隙間の暗がりも、一つの調和として静雄である。潔癖なまでの美しさ、光に負けて時に射す影、頬に流れる汗が顎をつたい、湿った浴衣が足に貼りつく。その体はもう静雄のものではなかったし、ましてや幽の物でもない。その心も同じように、二人のどちらの手からも抜け出している。幽は兄の少し神の伸びた襟足に桃色の鬱血をみつけた。静雄の心はきっと、吸われなかった血の代わりに唇を潤したことだろう。そういうことなのだろう。

「兄さん、」
「うん、どうした?行くか?盆踊り。」
「ううん。暑いしそろそろ帰ろうかと思って。りんごあめ買って帰ろう。」
「そうだな。冷蔵庫で冷やして、飴パリパリにして食べるのがうまいよな。じゃあ帰ろう。」

 池袋に帰ろう。非日常は終わりにする。兄の部屋で、冷たく冷やした林檎飴を食べて、落とした飴の欠片を拾ってやりながら、そうやって緩やかに日常にもどろう。太陽の季節ももう終わる。熱に浮かされただけではいられない。
 静雄は林檎飴を屋台で買う。できるだけ甘いもの、できるだけ赤いもの、林檎がみずみずしくすっぱいものを。おいしそうに食べる静雄の顔は幽に現実を突きつける。兄は、どんな顔をして食べれば幽の心を打ち砕くことが出来るかなど知らないのだ。零れ落ちた赤い飴の欠片は二の次で、果実をかじり続ける。なにも知らない無心な様子が幽を何よりも興奮させるし、絶望させる。幽は、けれど、兄に何も知らないでいてほしかった。
 飴のはいったビニール袋をがさがさと揺らしながら静雄は振り返った。微笑んだ目元が見開かれてこわばった。幽の面は何も変わっていない。何も持たずにぶらりと垂れている袖が何かとすれ違った。

「帰っちゃダメだよシズちゃん。」

 幽のいつもの無表情さは、本当に何も感じていないような静かな湖面のようなのに、この瞬間だけは違った。筋肉が硬化して、感じたものを押し殺した、こわばった無表情をしていた。静雄には驚くべきほどその感情が伝わってきたし、常人にはわからない筈の変化を折原も感じ取った。

「そんな顔しないで、幽くん。子供じゃあるまいし、一人でも帰れるだろう?」
「関係ありません。お帰りください。」
「幽くん、」

 灯篭の灯りは折原にも降りかかっている。いかにも冷たそうな、汗ひとつない肌が色づいているのは明らかに不自然だった。折原臨也と言う人間は、自分よりもずっと人形のような人間だと幽には思えてならない。あらゆる人間の欲望と理想を詰め込んで作られたような印象がそう思わせるのだろう。幽は、その人間たちの中に兄が入ってしまうのがたまらなく嫌だった。折原といるときの兄が、ただの欲望の塊のように見えてしまって我慢がならない。

「シズちゃんが君と俺どっちを選ぶと思う?」

 幽の横をすりぬけて、折原はビニール袋を持った手を取った。どのように触れているのかは折原の体が邪魔で見えない。カサカサと鳴るビニール袋とほんのりと染まる静雄の顔から推測するしかない。

「幽くんに決まってる、って言いそうだね。」
「ったりまえだろ…。大体、手前なんでここに…」
「シズちゃんを追いかけてきたんだよ。」

 半笑いだった瞳が兄を見上げる。赤い光彩は燃えるような色をして、その実炎のような温度はもっていない。それに見つめられた静雄の瞼は閉じられた。悔しそうに眉根をよせて、ぎゅっと縮まるようにして、往来の真ん中、小さな音を立てて口づけは終わった。

「おいで」

 ビニール袋をガサガサといわせて静雄は連れて行かれた。人ごみに紛れて、暗がりに紛れて、幽にはその後を追うことが出来なかった。とぼとぼと車の停めてある駐車場へ行って、車に乗って帰った。誰も見ていないし、誰も気にしないはずだが、幽の顔はいつもの無表情へと戻っていた。そうするしかなかった。自分の気持ちを押し隠して、そうして幽は一生生きてゆく。きっともうどんなに悲しいことがあっても自然に涙を流すことはできないだろうと思った。




 折原は自分でも大概馬鹿なことをしているという自覚はあったし、それを恥ずかしがる気持ちもあった。どうして新宿からこんな男を追いかけてきてしまっているのかとか、今日の荷物が財布と携帯と潤滑剤だけだったとか、往来の真ん中でどうしても我慢できなくなってキスしてしまったとか、木の陰で性器を触らせるだけでは我慢できなくて安っぽい民宿のような連れ込み宿に男二人で入ってしまったとか。数々の後悔の中でも極めつけは、ぐったりとしてしまった男を踏みつけて捨てて、一人で新宿に帰ることができないことだろう。

「いざや…、帰んねえのか?」

 折原はうんざりとした気持ちになった。帰れないと自覚したばかりのところで静雄がこんなことをいうから。縋るような、期待するような、嬉しそうな目で、ぐちゃぐちゃに乱れた浴衣の上で、汗をかいた体をくねらせて、そんなことを言うので、うっかりとかわいいと思ってしまった。かわいがりたい気持ちを抑え込んでこれは欲情だと言い聞かせる。頬を撫でる代わりに唇に触れてやればいい。抱きしめる代わりに舌を吸い上げて絡め取ってしまえばいい。手をつなぐ代わりにセックスしてやればいい。
 折原は、いとおしいという気持ちを情欲に変えて、愛しているという代わりにセックスをする。自分の内側でのた打ち回るむず痒い熱に耐えきれない。しかもそれを、こんな化け物に。こんな化け物、動物と同じだ。このかわいさもいとおしさも動物にこみ上げるものと同じに違いない。理性も何もなく行動する人間でない生き物に感じる好意なんてそんなものだ。だから、それに見合った愛し方でいいはずだと、今にも破れような言い訳を掲げている。

「帰らないよ。これで終わりじゃないからね。」

 折原は静雄に触れた。優しくではなく、いやらしく。静雄の顔が青ざめて震える。けれど、吐いた息は熱かった。言い訳が今にも崩れそうなのは誰よりも折原がよくわかっている。折原は犬に欲情なんてしないし、それが猫でも鳥でも爬虫類でも魚でも虫でも欲情しない。もっと言うと、女でもえり好みが激しくて、男なんてもっての外だ。それでも吐き出すのに苦労した覚えはないが、手にした喜びも少なかった。そんな男が朝まで一人の人間を抱くなんて、しかも大柄な男を組み敷くことにこんなにも興奮しているなんて、普通ではありえない。普通でないことが起こっているとしか言えない。

「もっとさせて。もっと。させてくれたらそれだけ長く居てあげるよ。」

 本当におかしい。もっと長くいたいと望んでいるのは折原なのだ。しかもここに居たいと思う理由に笑ってしまう。かわいくて、優しくしたくて、喜んでほしくて、ここに居たいと思う。けれど口から出るのは可哀相なほどに粗末な言い訳だった。セックスの為にここにいてやるなんて言い訳にもほどがある。大体、どうして欲情なんてしているのか。馬鹿みたいだ。折原は何度も思う。馬鹿みたいだ、と。

「する気がないなら帰るよ。」
「まてよ…!」
「誘えよ。足開いてしたくてしたくて仕方ないです、って言えよ。」

 おずおずと足を開いた静雄を見ながら、折原は勃起していくのを感じた。足を開くと肛門から潤滑剤と精子が零れてそれに恥じ入る静雄を見ていると、もういいから、とやめさせてそっと口づけて優しくしてやりたい気持ちになる。やっぱり馬鹿みたいだ。

「いざ…」
「なにか言うことあるんじゃない?」

 口ごもった静雄は首まで真っ赤になってしまっている。消していた電気もつけてしまうとそれがよりはっきりと見えた。布団の上に乱れた黒い浴衣が二枚、その上に涙目の大柄な男が一人、肛門から精子を垂らして半立ちの性器からも先走りを零しながらこちらを見つめている。電気がつくと、より恥ずかしがって体を震わせて、そのせいでまた肛門から白濁を漏らしてしまう。

「いざや…、もっとしてくれ。したくてしたくて、仕方ねえ…」

 折原が優しくしたいと思っても静雄がこう煽ってしまっては折原に残された道はない。獣のように静雄を貪って、朝になったら静雄の寝顔を眺めて、起きそうになったら慌てて出ていくのである。可哀相にと思いながら、寝ぼけた顔で「行くな」と言われると置いていけなくて、それは折原臨也としてのプライドが許さなくて、ドアの音で静雄の目を覚ます。目の覚めた静雄は、ほんのりと残った体温と匂いに寂しさを覚えながら、それらが消えるまで布団で過ごす。だけれど、そんな言い訳とか無駄な努力も何かの拍子にあっけなく潰えるのだろう。折原臨也は平和島静雄を愛していたし、平和島静雄も折原臨也を愛している。つまりそういうことなのだ。




 



ちやこ様リクエスト:
「臨也(→→→)←静雄で、本当は静雄が想ってる以上に静雄のことが大好きなのに嫌いなフリしてる折原と、片想いだと勘違いしてる静雄のすれ違いラブ」



無駄に幽→静要素入れてしまったのですが、全然生かせていない残念な結果に!すんません!しかもぬるくエロ描写入れてしまって本当にすいません><

あとかっこいざやで行きます!とかコメントのとこに書いていたんですが蓋を開けてみたら格好いい折原さんドコー状態で… ハハ…
返品交換受け付けます!ちやこさん本当にリクエストありがとうございました!







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