時計の針の音が不愉快だった。
 窓から眺める新宿の夜景が一面喜色ばんでいればそれ程でもなかったかもしれない。しかし、外の風景は変わらなかったし、時計もただ一秒を刻んでいる。何と言うことはないのだ。人が生まれることにさした意味はない。人の生まれる過程には意味があるのかもしれないが、それと生まれた人間の意味は繋がらない。だから誕生日というのは生まれたあとにだけ祝うものなのだ。祝われる価値のある人間にだけそうされればいい。一方、こちらはそういう価値は全くない。自分はよくよくそれを知っている。
 零時をこえると、プライベートに分類されている携帯電話が引っ切りなしに鳴りはじめた。その殆どがメールだった。『臨也様』『先生』『折原さん』『奈倉さん』『お兄様』等々、等々。自分に対して尊敬のベールを通して接する人々は自分のことを好きなように呼ぶ。神に近しい存在として、なんにでも答えてくれる教師として、身分違いの秘めた恋の対象として、顔の見えない情人として、なんでも許してくれる兄として、ベールに揺れる面影を自分の姿として言葉にのせる。その全てが嘘だとは言わない。むしろ、それこそが自分の真実の姿なのだと思う。自分の姿など鏡をのぞいても見つからない。それはただ相対する人のなかにだけある。
 もしもそれに疲れるとしたら、自分のことを客観的に見すぎているからだ。客観的に自分はこうである、と決めるから、相手が思う自分と自分が決めた自分との相剋に巻き込まれて疲弊する。自分がどうありたいか、というビジョンは必要かもしれないが、それだけに固執するのは得策ではない。その筈だ。

 鳴りっぱなしの携帯電話とこれから鳴りそうな携帯電話の電源を順に落として寝室へ向かう。いつも一分一秒さえ惜しく眠ることも食事をすることもすべて好奇心に捧げていても、流石に限界は訪れる。世の中が緊張に詰まった息を吐き出す一瞬のタイミングで自分も休息をとって体を休める。街や情報と違い自分は生身の人間なのだ。うねりうねる渦と同じだけのエネルギーなど持たない。自分はその渦の中に入る人間を決めて、一番近くで四肢のもげる様を見るだけ、或は見せているだけだ。引き込まれないためには、たまに離れなければいけない。

 寝室は暗かった。カーテンは締め切られ、間接証明の明かりもついていない。ドアから漏れる廊下の明かりが家具の場所をぼんやりと示すだけだ。廊下の明かりも消してしまえばそこはただの暗闇だった。
 そう思ったのだが、ベッドサイドでスカイブルーのライトが点滅している。駆け寄って、すぐに受信画面を開いた。手が震えている。鼻の中が塩辛く、痛かった。

『お前の家に行くから鍵開けとけ。』

 その一文を見て、今すぐに携帯電話を叩き割りたい気持ちになった。そんなことはしなかったが、とりあえず壊れたらいいという気持ちを込めて壁に投げつけた。ついに一滴涙が零れる。あの化け物は、何を考えているのだろうか。自分は、一体何を考えているのだろうか。なんという愚かなことを考えただろう。もはや考えも及ばないところの事だった。嬉しさに駆け出したのは自分だし、感涙しているのも自分だ。もっと言えば、彼に無理矢理この電話のアドレスを教えたのも自分だし、この電話を彼との連絡用にしようと勝手に決めて枕元に置いていたのも自分だ。全く愚かとしか言いようがない。今まで喜びにうち震えていた体が悔しさでいっぱいになる。自分は一体何なのだ。

 もういっそさめざめと泣いてしまいたい気持ちだったが、そうはさせてくれなかった。インターフォンが来客を知らせている。なるべくゆっくりと暗い家の中を歩いてインターフォンをとる。

『開けとけって言っただろ』
「エントランス解放してたらオートロックの意味ないじゃん。シズちゃん馬鹿なの?」
『オートロックのマンションなんか住めるわけねえだろ…!馬鹿にしてんのかぁ?あ?』
「今開けるから。ドアの鍵は開けておくから怒らないでよ。」

 電話を置いて解錠ボタンを押す。玄関の鍵を開けて、家の中の電気をつける。電気ポットで湯を沸かして、ポットに茶葉を入れる。二人分のカップを食器棚から出した頃、玄関から物音がした。

「よお」
「こんな時間に人の家来るとかなんなの?迷惑とか考えないの?考える訳無かったよね。シズちゃんがそんなこと考え始めたら俺もそろそろ人間やめるよ。」
「我慢してやるからもう息するな。」
「あー!このダージリン本当にいい匂い!!思わず息吸っちゃう!」
「なんで茶なんていれてんだよ。そんなもんいらねえ。」

 自分は先程から顔があげられていない。彼の目を見て喋ることは、随分前から出来なくなっていた。紅茶をいれるのだって、それから逃げる手段のようなものだ。だけれど彼はそんなことを許さないとでも言うかのように自分の顎を掴むと顔をあげさせて、食い入るように自分を睨んだ。その目を見ていたくなかった。彼は心を持たない獣の目をしている。彼の目に写る自分はなにも曖昧なところがない。人の目にうつるときのように、濁った像をしていない。
 四回ほど瞬きをしたころ、彼の左手が目の前に翳される。黒い手袋がその手を覆っている。気がつかなかったが、右手も手袋をしているのだろう。

「これ外せ。手袋。」

 そう言われるがままに、指を一本一本抜いて手袋を外す。中指の爪先を摘んで手袋をテーブルの上に放ると、白い指の付け根にリボンが結ばれている。

「手前の欲しいものやるよ。欲しいだろ、俺が。」

 そのリボンには見覚えがあった。たった数ヶ月前の事だ。きっと一生忘れられない重大な出来事が、たった数ヶ月程度で色褪せる事はない。現にリボンだって鮮やかなままだった。あげたくてもあげられない悔しさ紛れに結んだあのリボンだった。
 悔しいと思った。本当に悔しかった。自分がずっと出来なかったことをされたとか、彼に思いを見透かされていたとか、自分がずっと大事にしてきた気持ちを彼の短慮で踏みにじられたとか、言葉にしてあげつらうことは出来ても、言葉に出来ない部分が多すぎる。ただ悔しかった。

「俺のことが、好きなんだろ。」

 そうだ。好きだ。彼のことが好きだ。まだ認めたくないのに、こうして迫られれば口に出てしまいそうになる。俺は彼を好きになりたくなかった。誰のことも好きにはなりたくなんてなかった。だから認めたくなかった。だけれど油断すれば溢れ出してしまいそうで、彼の前に立つのが怖かった。

「お前のすきにしていい。やる。」
「どうして…」

 どうして、と聞きかけた口はやはり手袋をしている右手に遮られた。

「それを聞かれたら困る。それを聞くなら帰る。」

 彼はどうして教えてくれないのだろう。自分の気持ちを知っていて、こんなことをして、それなのに彼がどうしてそう思ったのか教えてくれない。
 彼は酷い。狡い。

「俺が、断れる訳ないこと知ってるくせに…!」

 自分の顎を掴むその手に触れた。指先でそっと触れた。今にも離れていきそうなその手は離れない。それに更に戸惑う。きっと触れれば消えてしまうだろうと思ったのに、指先は熱い体温も脈打つ血液の動きまで如実に伝える。彼はここにいる。自分に触れて、触れられている。指を滑らせてカフスを外し、広く開かれた袖口から腕をなぞる。先よりもずっと熱の篭った、湿り気のある触れかただった。しかし彼はそれでも消えなかった。あの獣の目でじっと自分を見つめている。濃い色をした睫毛が震える。けれど、視線だけはずっと自分の赤く色づいた瞳を見つめている。
 彼の瞳に映る自分は、ただひたすらに人間であった。彼が欲しくてたまらないと色を湛えて、彼を貪る瞬間をはかっている、一匹の化け物だった。


この話は基本的に折原さんのテンションが振り切れてます

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