論述対策の授業は5時間目の授業だが、その授業のない日は殆ど昼休み前に授業が終わる。3年の時間割なんてそんなものだ。放課後まで残る用事がなければこの時間まで学校に居ることはもうほとんどない。
 図書室には西日が射し、遠くに見えるビル街は紫色の帳をおろして学生の目から夜の世界を隠している。もう少しすれば自分もあのビルの世界に囲われて生きなくてはならない。大学受験をする気はなかった。テストなどはそこそこ出来たのだが全体の成績は良くなかったし、勉強したいことなどなかった。勉強は嫌いではなかったけれど、大学にいる年の間に掛かる費用と釣り合うだけの熱意がなかった。就職するために大学に行く、という奴もいるけれど、職種を選ばなければ不景気といわれている昨今でも仕事はある。

 俺と折原先生は二人でこっそりと夜中に飲みに行くような仲になった。最近寝付きが悪い、と学校で会った時に漏らしたら「寝付きがよくなる薬ほしくない?」とメールがきて、欲しいと返したら池袋に呼び出された。
 酒が入ると確かによく眠れた。だけれど、意識の途切れるあの一瞬までが辛かった。薄いカクテルグラスに口を付けると体が火照って、先生の声が耳から離れなくなる。先生の声は夜に会っていると余計に耳につく。先生の声しか聞く必要がないからかもしれない。じゃあね、と家の前で別れてから、意識のなくなるその時まで、俺はずっと苦しい。瞼の落ちるその時まで、ずっと先生の口元の動きと声を思い返す。静雄君、静雄君。だけれど先生はたまに平和島君、と呼んでしまう。それがどれほど辛いことか先生はきっと知らない。仕返しをしてやりたいけれど、俺はいまだに折原先生のことを『臨也』と呼べたためしがないのだ。きっとこれからも出来ないだろう。

 高校を卒業したら、よく行くバーに見習いとして雇って貰えることになった。どうしてそんなところにツテがあるのか、と親からは訝しく思われたけれど、家から近くて(自転車で5分、徒歩で10分の場所にあって、夜中に家を抜け出しても帰ってこれる)しっとりとした雰囲気のある、バーと言われて想像できるイメージ通りのバーだったこともあって親の許しは思っていたよりもすんなりと下りた。
 いまはアルバイトをそのバーだけにして、少しずつだが接客マナーやカクテルの勉強もしている。高校を卒業したら、一生そこで過ごすのだから、出来るかぎり仕事を好きになりたい。いろんな人に楽しく酒を飲んでもらって、色々な話を聞かせてもらって、お代を貰う。一日の終わりにヤケになっている疲れた人の瞼をおろす仕事だと思うといい、と先生に言われた。店長は先生の言ってる事をそこまで信じないほうがいいと言ったが、俺にはそうは思えない。俺が寝付きが悪いと言ったのがここに通いはじめた理由だからそう言ったんです、と言ったのだが、店長はそれが理由ではないと、だけれど理由は言えないのだと言った。

 先生になにか秘密があることは知っている。それを俺に言っていないことも、寧ろ隠そうとしていることも知っている。知りたいと思うけれど、それは言えなかった。そんなことを聞ける間柄なのかどうかわからないし、それに聞いてもはぐらかされてしまう気がした。もしはぐらかされてしまったら嫌だった。俺には関係ないと言われるのと同じくらい辛いと思う。それは、夜中にベッドの中で先生の声を聞いているよりもずっと苦しいと思う。だから、先生の秘密は聞きたくない。ビルに囲われて、大人になって、先生のことを臨也と呼べるようになったら聞く事も出来るかもしれないけれど、ただの高校生の自分には出来ない。本を買う金が勿体なくて図書室でマナー本を探しているような自分には出来ない。

 流石に学校にカクテルレシピの本はなかったので、それは帰りに本屋に寄って帰ることにする。接客マナーの本は沢山あるうちの3割程しか役に立ちそうなものはなかったので(たったの3冊になってしまった)それを借りていくことにする。10冊近くあった本を吟味するために時間がかかってしまった。日は落ちかかって、図書室には人もまばらだ。閉門時間まではまだ時間があるが、寒くなる前に帰って家でゆっくり本を読もう。

***

 図書室は教室のある建物から渡り廊下で繋がった、少し離れた場所にあった。大きな金木犀が植えられた渡り廊下は鬱蒼として暗い。これが秋ならオレンジ色の花を咲かせて甘い匂いを漂わせていてまだいいのに。目前に夏を据えたこの頃ではまだその季節には遠く、夕方の闇をいっそう濃くするだけだった。
 渡り廊下から校庭が見える。今の時間使っているのは陸上部らしい。隅の方ではサッカー部が部室へ引き上げていくのが見えた。
 一度くらい、部活というものをしてみたかった。中学に上がった時には既に自分の事は池袋中に知れており、路地裏に引き込まれては相手を殴る生活が続いていた。今もさほど変わらない。変わったのは相手だけだ。昔は学生が多かったが、この体質を狙って飼い殺しにしたいと思っているような奴らだけはしつこくいまだに狙ってくる。これが部活の代わりといえばそうかもしれない。個人種目、自由型、選手平和島静雄。リレーに憧れていましたが、チームメイトがいませんでした。それはそうだ。こんな競技、誰が好き好んでやるというのだろう。
 土埃を上げてランナー達は走る。マネージャーがタイムを計る。ただそれだけのことが出来ないのが不思議なほどに校庭は近くて遠い。いつまでも見ているわけにはいかない。もう行こう。
 そう思い、図書館棟を後にしようとしたが、向こうから誰かが来ているのが見えた。細身のスラックスと、ニットのネクタイ、だけどシャツの一番上だけはいつも外している。

「先生…」
「平和島君?こんな時間までどうしたの?」
「図書室で探し物してて、時間かかっちゃいました。」
「そうだね、ここ、生徒は図書室しか入れないよね。じゃあ、気をつけて帰って。」

 先生の声がいつもと違った。初めて聞く声だった。いつもの優しそうな声でもなくて、たまに聞くようなぞくぞくするような声でもなくて、冷たくて苛々とした不機嫌そうな声だった。それに、帰ってとだけ言われるのもなんだか変だ。いつもの調子なら「一緒に帰る」くらいのことは言いそうなのに。
 後ろでバタンと扉の閉まった音がした。ここのドアは古くて、うまく閉まらないからいつも少しだけ開いていることが多い。普通、学校の渡り廊下のドアなんてしっかり閉まっていようがいまいが誰も気にしない。
 だけれど、先生はわざわざドアを閉めたのだ。

 先生は割と几帳面だけど、そこまで几帳面かどうかまで自分は知らない。知らないからこそ、先生がどうしてドアを閉めたのかが気になった。
 いや、気になった、というのは言い訳かもしれない。先生に閉め出されて、早く消えろと言われた気がして、どうにかしてその中に入りたいと思ったのだ。苛々しているのなら、どうして苛々しているのか知りたいし、あたっちゃってごめんね、と言ってほしい。謝って欲しい訳ではなくて、自分を追い出した訳ではないのだという確証が欲しい。

 もう一度図書館棟の扉を開ける。そっと図書室のドアを開けて図書室を覗いても先生は居なかった。図書室の他には、トイレくらいしかここにはない。そういうことならば、先生はトイレに行きたくて苛立っていたのだろうか。そう思ってトイレに入ったが、トイレには誰も居なかった。
 トイレから出ると、一人の女子生徒が二階へ上がる階段を駆け足でのぼっていった。スリッパのぺたぺたという音が反射して響く。そういえば、二階には会議室がある。生徒は鍵を借りてこなければ入れないし、使う機会もないのですっかり忘れていた。そういえば、吹奏学部などは練習で使ったりしているらしいし、そんなに知られていない場所でもないのかもしれない。
 階段に足をかけると、自分のスリッパもまたぺたりと鳴った。なんだかいけないことをしているようで気が咎めて、スリッパを脱いで、足音がたたないように階段を上がる。

 先程の渡り廊下のドアと違って、会議室のドアは少し開いている。ほんの僅か、ドアの鍵が引っ掛かっているだけ。そこから漏れる声もほんの僅か、ささやかなものだった。

「臨也ぁ…早く…!」
「ダメ、ドアの鍵締めてから。締めてきて。」
「誰も来ないよ。絶対来ないから、キスして。」
「リサ、早く締めてきて。」

 ペタペタとスリッパの音がする。会議室のドアはドアノブを回しただけでするりと閉じた。力がかかっている訳でもないから大きな音もしない。会議室だから、閉まってしまえば音も全く聞こえない。けれど、聞こえないはずの、鍵のかかるがちゃりという音が、耳の奥で何度も何度も反響する。

「…臨也……」

 思わず口に上らせた声が聞こえていないといい。こんな声は自分でも初めて聞いた。冷たくて苛立っているのに、興奮で震えた声。
 きっと今日も上手く眠れない。









MOTTAINAIの精神で上げてるんですが、パラレルっていうか別人420号すぎてどうしたら…!

折原は割と通常運転なのでこれでいい。

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