人魚が丘にあがる時



真っ黒なシーツを間接照明が照らす。暗い海の、うねる波に篝火があたれば波と波は光と闇にわかれる。その波間には色味を失った肌色がこちらに向かって手を伸ばす。控えめな誘いかただ。こんなに控えめな誘いで自分の気をひこうとするなんて、俺は結構経験豊富なんだよ?君の誘いくらい簡単に振り切れるさ。躱しかたも経験豊富なんだよ。君のせいでね。

「嫌ならいい…。」
「嫌なわけないじゃない。まったく夢のようだ。」
「…今避けただろ。もういい。帰る。」
「おこらないで。」

こうやって帰るって言ったってきっとその言葉に意味なんてない。もういい、なんて言っていても諦めきれない執着がひびわれた目の中に篭っている。濡れたガーネットのように輝く瞳は篝火にぎらぎらと燃える。
白い肌に赤い瞳、波間から伸びる手が嫌に目について視線を送ればその美しさにはっとする。触れたくて堪らなくなる。あんな稚拙な誘いかたで、もう我慢ならない。一度躱しても瞼の裏で手を振る。何度も何度も。

「もう限界だよ…。正月から取り立てに行った君より、取り立てられた奴より、俺が一番可哀相な正月だったって断言できるよ。会いたかったもの。」
「正月中何回も邪魔したの誰だよ。マジで邪魔だった…。」
「あれは仕事。シズちゃんの邪魔するのは仕事も兼ねてるって覚えといてくれる?正義感の強いシズちゃんに邪魔されたら困る人もいるんだよ。それに、俺が会いたかったのは今のシズちゃん。」

瞼の裏で振られる手をぎゅっと握りしめる。夢に見たよりもずいぶんと節くれだってごつごつとした男の手だ。細いとは言ったって人魚姫のようなたおやかさはもちえない。荒れ狂う海に消え入りそうな儚さは、遠くにあるものをかどわかすためだけにあって真実そうではない。海は彼の家だ。彼の心一つで穏やかに包み、彼の溜め息で凍りつく。自分が心配することなど何一つない。彼は満ち足りている。
それが嫌で堪らないのだと、言えるようになりたいと思ったのは初めてだ。

「寂しくなかった?会いたくなかった?」
「忙しかった。」
「そんなことはどうでもいいよ。シズちゃんの気持ち一つでいい。」
「俺は…」

不思議なものだ。なにがそうさせるのか全くわからない。自分も彼も思ったことを言いたくない。寂しいも、会いたかったも聞きたくて耳を澄ますのに、声が出ない。
握られた手を握り返される。声はなく、シーツの擦れる音だけがほんの少しばかりする。

「お前の会いたいってどういう意味かよくわかんねえ。」
「そうやって、俺に甘えて欲しいだけだよ。」
「そうか…。」

そうだよ、と言いながら彼を抱きしめる。夢で触れるより温かな体温、夢よりも固く自分を抱く腕。儚さなど何一つない確かな感触。

「…ねえ、甘えてよ。もう、限界。」
「…ん。」



彼も自分も、言葉を持たない。本当の言葉だけがどうしても声に出来ない。シーツが擦れて音がなり、間接照明はその皺を照らしている。
波に消えるその時に、自分はただひとつ思う。これが愛しいということなのだと。膝を折って、身をなげうって、海の中で生きる決意を、深く吸い込んだ夜の空気に閉じ込めた。









エロパート書いてからあげようかと思ったのですが、エロを書くのが苦手なので先に半分上げちゃいます。



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -