神様は俺を指差して笑った8



携帯電話がブーブーと早朝から不快な音をたてる。こっちだってまだ寝てたい。いつもだったら寝てる時間だ。だけれど、そうも言っていられない。昨日から、彼を起こすのは、変なところにおいてある目覚まし時計から自分になったわけで、なにより役得もある。
携帯の電源ボタンを押してアラームを切る。身じろぎしても起きない彼の寝顔を確認して、硬く絡まった指を解く。くい、と体が引っ張られて彼に密着するように倒れる。今日も彼の引力は健在だ。もう一度指を絡め直して彼の頬を撫でる。朝日に陰る睫毛の、暗さと煌めきが美しい。どんなに眠くてもこれを見ないで一日を始めることは勿体ない。一時間ほどゆっくりと堪能したあとに彼を起こす。


「シズちゃん、八時だよ。ここからじゃ今起きないと間に合わない」


まるで夢のようなひとときだ。いつまで続くかも、この先どうなるかもわからないところも夢のようだ。この生活はいつまで続くのだろう。そう思った瞬間に溶けてなくなってしまいそうで、口にだすことも出来ない。
何度か揺さぶると彼がの瞼が震える。もう少しで起きそうだ。


「今なんじだ」

「八時。もう起きないとダメでしょ?」

「今日やすみ…」


うとうととまどろみながら喋る彼にはそれが精一杯であるかのように、ベッドサイドを指差した。そこには充電器に差し込まれた彼の携帯電話がおいてある。受信メールを覗くと、田中さんからのメールが入っていた。曰く、折原君の仕事もあるし有休もそろそろ消化させたいし明日は休め、とのことだ。メールは昨日きたらしく、夜中の時刻が受信時刻になっていた。もう一度彼のほうを見ればもう既に眠りに誘われて夢路を全力疾走している。
だけれど、彼は一体いつこのメールを見たのだろうか。

今の生活は不自由なもので、風呂も一緒に入っているし、トイレはなるべく距離を保っても腕を精一杯伸ばした範囲がギリギリだから、ドアも半開きで、相手がその時『何をしているのか』まで克明に聞き取ることが出来る。自分と彼のプライベートはもう殆ど守られていない。守られていないなりに、守っている振りをするのが暗黙の約束となっているのだが、それにしても気になる。


「シズちゃん、起きろよ!このメールいつ見たの?」

「…うるせえ、手前、寝てただろ」

「そんな筈ないじゃん。俺がシズちゃんより遅く寝てるの知ってるだろ。」

「…うるせえ……!」


なにかが空を切る音が聞こえて、体をのけ反らせると彼の腕が鼻先すれすれをなんとか擦れずに通過した。思わず冷や汗が垂れる。何故平和島静雄の家の目覚まし時計がキッチンにあるのかを肌で理解した。一体あれは何代目の時計なのだろう。彼は今度こそ眠りに落ちたらしく、先程の唸り声からは想像も出来ないほど穏やかな寝息をたてている。一つ寝返りを打つと、ウォーターベッドがたぷんと波打った。

仕方がない。今度こそ鼻を砕かれるかもしれないし、大人しく自分もベッドから出ないことにしよう。手に握ったままのオレンジ色の携帯電話をしげしげと眺めつつ、降って湧いた休日の過ごし方を考えようと思った。彼が初めて家に来た日から置きっぱなしのノートパソコンを片手で起動させて、そう決めた。
パソコンを起動している間、彼の寝顔と携帯電話を見較べる。いつメールをチェックしたのか、出来たのか。よくよく考えてみれば、そんなの一つしかない。彼の言う通りだ。自分の寝ている間しかない。全くもって絶対に認めたくないが。メールを開いて受信時刻をもう一度見ると、自分が寝入っている彼の寝顔を確認して、彼の引力を利用して、彼に抱きしめられて眠りについたそのあとの時間だ。田中さんがそんなに夜遅くにメールしてくるタイプには見えなかったが、昨日からかった意趣返しかもしれない。それはおそらく、彼にではなく自分に対してのつもりだっただろう。彼が夜中に起きるだなんて、そんなことはなかなかないのだから。自分は見てくれから明らかに夜にメールがきただけでも起きそうなタイプだと判断されたのだろう、これは恐らくそういう意味のメールに違いない。

だけれど自分は彼の胸のなかで眠りこけていて、彼はそれに気がついた。自分は彼にべったりくっついて眠っていただろう。携帯電話をとるまえに、何も思わなかったのだろうか。
いや、寧ろ、彼が何故目覚めたのか。微かな音でも起きるほどの緊張状態に彼がいるということだろうか。

手持ち無沙汰に携帯電話をいじっていると、その微かな揺れにベッドの中の水が揺らめく。彼の寝息と相まって、緩やかに眠りを誘う。どこまでも穏やかな誘惑だ。誘惑という言葉すら似合わない。凪いだ湖の上にいるようだ。無音すら感じられないように微かに音がして、湖面は鏡のように空の青を映すだけで、揺らめきひとつない。

パソコンのテーマ音が起動を知らせる。あまりにも大きな音でハッとした。
どうも眠りかけていたらしい。大きな音だと思ったのだが、急に覚醒させられたことによってそう感じただけのようだ。音量を弄った様子はない。

穏やかさとは、一種緊張状態にあるのかもしれない。なにかあればすぐに知覚される。だけれど、だからといってすぐに感情に波立つわけではなくて、我慢できる度合いや、その人の気のもちようでは知覚されるだけで終ってしまう。先程のイメージと重なる。深い湖、そこに小石を沈めるのと、小さな水溜まりに小石を沈めるのでは、巻き上がる泥の量は変わる。砂を入れれば、小さな水溜まりではその存在は消えてしまうだろう。彼は今、どんな気持ちなのだろう。広い大きな海にいるのか、それとも、埋め立てられた悲しい水の跡を眺めているのか。

どちらだって変わりはしない。自分の動作に一喜一憂して、俺のことを疑いきれもせず信じ切れもしない、可哀相に思うほど愛しい彼でなければどちらだって同じことだ。すべて許されることも無関心でいられることも自分は望まない。

今までずっとそう思ってきた。そうやって、彼のことを手の平で転がすことが出来ると、まるで他の普通の人間達のように簡単に捉え続けてきたけれど、だけど、やっぱり彼に関しては自分の力の及ぶところではないのかもしれない。彼を、もう少しで出し抜いてこの掌に掴めると思っっていたけれど彼はそんなに簡単ではない。まず、自分だって彼に対してこんなにも冷静でいられない。不確定な要素が多過ぎる。彼に一度触れただけでこうだ。この様だ。それなのに、これ以上のことを自分は考えていたはずなのに、きっとこれでは計画通りになどならないだろう。どうしたらいいのか、わからない。彼に無関心な目で見られたら、彼に無条件に全てを肯定されてしまったら、一体自分はどうなってしまうのだろうか。

漠然とした不安を抱えながら、彼の手を握りしめる。自分が握ったって、壊れようもない彼。こんなにも確かに握っているのに、いつ抜け出ていくかと気が気でならない。

いったいいつまでこのままでいれるのだろうか。誰か教えてほしい。今日をどう過ごせばいい。どんな顔で、どんな話をして、なにをしてすごせばいい。この尊い時間はあとどれくらい残されているのか、自分と彼が永遠にこのままでいられる方法があるのなら、誰か教えてほしい。


ノートパソコンから音がなる。メールの着信音とともに、膨大な数の情報がなだれ込んで来る。一番教えてほしいことはなんにも書いていない。人間達のことなんていまはどうだっていい。だけれど、彼等は自分を放してはくれない。当たり前だ。自分も彼等、人間の中の一人なのだから。