神様は俺を指差して笑った5


折原の手は冷たい。そして、ずっと握っていると少しばかり湿ってくる。もしかしたら、自分が過度に緊張して汗ばんでしまっているのかもしれない。前を歩く折原がぎゅっと握りこんで自分を引っ張って歩く。今日の分の仕事は終わりだ。
折原がいたことで、仕事はむしろ早く片付いた。一件目に向かう先でもぽちぽちと携帯電話をいじっていると思ったら、取り立てに行く四件の債務者の情報を調べていたらしい。近くのコンビニのトイレに逃げ込んでいた債務者だとか、ガッチリ溜め込んでいるくせにいろいろな所で返済期限を破っている債務者のヘソクリをぶんどったりだとか、そのほか二件は取り立てに向かうと普通に返してきたのですぐに終わったし、先の二件のような客がいることを想定して仕事の量を決めているから、折原がいたせいで(おかげで、とは言いたくない)かなり早くに仕事が終わってしまった。まだ二時を少し過ぎたくらいだ。先輩とも別れて、今は折原と二人で西武に向かって歩いている。
昼休みも過ぎた時間で、この時間の池袋は人も疎らだ。しかし、むしろまばらであるが為に折原と自分が手を繋いでいるところがまる見えになってしまっている。朝もだったが、視線が刺さるようだった。通りすぎる人がみんな足を止めて振りる。そんな状況で、いつものようにどこかの店に入って昼食を取るなんていう選択肢は存在しない。西武の地下で惣菜でも買って、そのあとは家に篭城するつもりだ。二人で。
正直、気が重かった。なんだか出来すぎているような気さえする。だけど、内心、ほんの少しくらいは、やっぱり、本当にほんのすこしの本心の奥底の方では、浮足立っている。心がザワザワとざわめく。本当にこんなことがあっていいのかと疑ってしまう。疑ったって自分がどうこうできなくて今こんな事になってしまっているというのに今更といえば今更だ。そう、今更どうにも出来ないと思ってしまえばこそ浮足立ってしまうのだ。
西武の惣菜売場は一回目のピークを終えた脱力感が漂っている。弁当を陳列している棚に商品はまばらで、少し値段の張るような豪勢な弁当しか残っていない。正直、自分の身の丈にはあわない。今日一日で三日分の食費が消えそうな予感がした。折原には折原でここで買ってもらって、自分はどこかファーストフード店で買うことにしよう。

「シズちゃん、何食べるの?決めた?」
「いや、俺、帰りがけにマック寄るから」
「は?俺の家の周りにマックないけど?」
「なんでおまえの家に行くんだよ。俺の家のほうが近いだろ」
「だって『家行こう』って言ったじゃん。ザッツ俺ん家ノットシズちゃんち。大体シズちゃんちの煎餅布団で泊まりなんて御免だよ。俺、この間ウォーターベッド買ったんだよね。あれで寝たらシズちゃんの煎餅布団なんてただの煎餅だね!」
「うちもベッドだよ!臨也君よぉ、なんか勘違いしてねえか?手前ェ引きはがすのなんか簡単なんだぜ。手前が死ねば万事解決なんだからよ…!」
「勘違いって何が?シズちゃんがお昼も買えない貧乏人だってこと?奢ってあげるから黙ってうちんちに来ればいいんだよ。大体、一日連れ回されたんだから生活圏くらい俺に合わせてくれてもいいんじゃないの?」

それを言われると少しも反論できない。いや、元々折原が悪い気もするのだが、昼まで奢ってもらうとなると強くも言えない気がする。もう奢ってもらうつもりなのが情けない。しかし、横目でちら、と盗み見る惣菜達はかなりうまそうだ。これで、炊きたての白いご飯があれば最高だ、と、そこまで考えてしまう自分が情けない。

「俺さ、ご飯は土鍋で炊くことにしてるんだけど、この雑魚の佃煮なんて上に乗っけたら美味しそうだね。山椒と柚子か。おかずも探さないとね。俺も疲れたし、夜はワインでも開けようかな。シズちゃんでも飲める白にしてあげようか?まあ飲ませてあげるとは言わないけどね。そしたらそうだなあ、パン屋さんでフランスパン買って、ケーキ買って、明日の朝はフレンチトーストだな。ハムとチーズも添えてあげようか?どう?これでもまだマック行くとか言うの?」

折原は随分不満そうだった。朝に見せたあの満足そうな顔の面影など全くない。そういえば、朝以来ずっとこんな顔をしていたことに今気がついた。
それはそうだ。こんな状態なのだから。自分と一緒なのだから。自分が浮かれて忘れていただけで、折原は自分の事を心底憎んでいるのだ。ざわめいていた心がすっと覚めた。

「お前にあわせる。飯も、奢ってくれるのは有り難いし、うちのベッドじゃ二人は寝られないしな。まあ、昼間からこんな話するのもおかしいけど…。飯はおまえの好きなのでいい。でも、その雑魚の佃煮は俺も食べたい」

自分でも驚くほどすらすらと言葉が出てきた。これまでに折原相手にこんなにも平淡な気持ちで言葉を発したのは初めてかもしれない。それくらい落ち着いた気持ちだった。
折原はますます嫌そうな顔をして、それきりこちらを向いて喋ることはなかった。なにか失敗したかもしれない。だけれど、自分にはその失敗はなにか解らなかった。
**

「あ、そうだ、帰る前に鍵屋さん寄ろうよ」

池袋を出発したタクシーのなかで折原が言ったのだが、その意味がよくわからなかった。何故鍵なんているんだ?と、聞くと、だってしばらくこの状態が続いたら俺ん家使うことになるでしょ?とか言った。一瞬納得しかけたのだが、でもやっぱりよくよく考えるとおかしい。

「離れられないんだから、お前が持ってれば十分だろ。なんで俺が持つ必要があるんだ?」
「あー…そうか。そうだった。なんでもない。忘れてよ」

そう言うと折原はまた黙り込んだ。不機嫌そうに顔をしかめるのも先程と変わらない。折原はずっとこんな顔をしている。あんなに、不愉快なほどに沢山の言葉を量産する口も閉じられたままだ。らしくない。こんな折原は見たことがなかったし、折原がこんなふうに喋るのも億劫そうに不機嫌に黙ることなど考えたこともなかった。らしくないといえば自分もだ。そんな折原を見ていても怒りなど全く湧かなかったし、折原を前に喋っているのにあまりにも冷静だった。いつもと違う折原がそうさせているのかもしれない。
キッと音をたててタクシーがマンションの前で止まる。折原の家はここらしい。いつもの事務所とは違うマンションだったので気がつかなかった。荷物を持ってタクシーを降りる。キョロキョロと辺りを見回すが、やはり見覚えのない土地で、ここがどこだかわからなかった。
ぐっと手を引かれて、折原に連れられる。静脈認証のセキュリティシステムがあることは知っていたが、そんなところに住んでいる奴が知り合いにいたなんて初めて知った。自分は折原のことなど、なにも知らなかったのかもしれない。だからといって折原もそうであるようには思えないのがかなり癪だが。

**

折原の部屋の中で、白米の炊ける甘いにおいが漂っている。レンジの火はもう消えていて、あとはもう蒸らし終わるのを待つだけだった。こんなにちゃんとしたご飯を食べるのは久しぶりかもしれない。最近はコンビニの油臭くてやわめに炊いてあるべしゃっとしたご飯をレンジで温めるだけの食事が多かった。実家はご飯を固めに炊く家だったので、正直コンビニの弁当はあまり好きじゃない。雑魚の佃煮は既に小鉢によそわれて、おかずに買った米なすの田楽も温められてテーブルに置かれている。タイマーが鳴って、がぱ、と土鍋を開けると、きらきらと粒のたった白米が輝いていた。折原がしゃもじと茶碗を差し出す。山盛りによそって食卓に着いた。ご飯は固めに炊けていて、所々お焦げもついている。

「あー、やっぱりちょっと焦げちゃうなあ。土鍋でも完璧に均一に火が当たるわけじゃないもんね…。シズちゃん焦げたとこ食べてよ」
「お焦げうまいのにいいのか?」「え、シズちゃんお焦げ好きなの?じゃああげない。味噌つけて食べよ」

折原の足がつつ、とふくらはぎを撫でる。はっとして顔をあげたが折原はなんでもなさそうな顔をして食事している。足を組み替えた時に当たってしまっただけらしい。
食事中片手しか使えないのはあまりに不便なので、向かい合ってテーブルについて足を触れさせることにしたのだが、これはこれで気になる。折原と自分は靴下は履いているもののスリッパはなく素足に近い状態だ。だから、たまに折原が動くと、足がくすぐられたように疼く。その度にびくびくと体を震わせるのが情けない。
そんな状態での食事は、永遠のように長くも感じたし、あるいはほんの一瞬の間に終わってしまったようにも感じた。食事が終わると、皿を食洗機に突っ込んで、折原が仕事をしたいと言い出した。こいつの仕事は自由業なのと同時に、年中無休で、しかも趣味も兼ねているのだ。あまり長く仕事から離れていたくはないのだろう。
パソコンのある部屋で、折原の隣にリビングから椅子をひっぱって座った。
だけれど、興味もない文字の羅列は自分を眠たくするだけでそのうちうつらうつらと眠たくなってくる。満腹だったのもそのせいかもしれない。ゆらゆらと頭の揺れはじめた自分に気がついたらしく、折原がちらりとこちらを見た。

「シズちゃん、眠たいならベッド行こうか?」
「や、このまま寝るから…。仕事しろ」
「このデータ、ノートパソコンに送ってそっちでやるからいいよ。行こう。立って」

眠さでぐらぐらゆれている自分の手を引いて折原が進む。この家は部屋数が多く、一つ一つもそこそこ広い。その中でも大きめの部屋がベッドルームだった。正面にある黒いシーツのかけられたベッドに倒れ込む。その時、折原の手が離れたらしく、折原が上に被さって来る。暖かい。折原は暖かく、ベッドはたぷたぷと水の音がする。それを意識の片隅で思いながら、自分は意識を手放した。自分が眠った後に折原が自分を抱き寄せたことなど、そんなことを知るにはあまりにも眠りは深かった。

**

目が覚めると真っ暗だった。暗く、温かく、折原のいつもつけている香水のにおいがした。甘く、それは同時に重たい匂いであって、海の名前がついたその香水は冷たく光の届かない深海を想像させた。何度か瞬きをすると、段々と目が慣れてくる。折原が身じろぐと、案外近くにあった鎖骨が、弱い光の中深海魚のようにくねった。折原に抱き込まれていることにやっと気がついた。
だけれど、自分は驚いて体を震わすこともなければ、一方的に怒って折原を殴ることもない。喜びに咽ぶことも、堪えきれない悲しみに身もだえることもない。とても穏やかな気分だった。
折原が何を考えているのか、今までだってわかったことなどないが、今日ほど解らないと思ったことはない。もっと言うと、今日初めて自分は折原を解りたい、もっと知りたいと思ったのかもしれない。今までは、自分が勝手に好きになっただけで、それだったら与えられた情報だけで満足するべきだと思っていた。それ以上なんて望むことが間違っていると思った。だけれど、今はもっと知りたいと思う。もう少しだけの間だから、もう少し自分の中の『折原臨也』を育て上げたいのかもしれない。そうだ、これはきっと折原とわかれるための、恋なんていう感情とわかれるための準備期間のようなものなのだと思う。

『この力』はきっと、永遠には続かない。何となくそれだけはわかる。

「シズちゃん、起きた?もう七時だよ。仕事なんて出来なかったよ。酷い寝相だった。」
「……」
「どうしたの?まだぼうっとしてるの?ご飯は?あんなに張り切って買い物したんだから、捨てるなんてさせないでよね。タダじゃないんだ」

折原の声はとても優しい声色だった。今朝の涙を払った指先のように優しい声だ。

「臨也、もう少しだけ。頼む」

もう少しだけ相手の顔も見えない暗い世界に居たかった。電気をつければすぐに消える、脆弱で穏やかな世界だ。仕方ないな一時間だけね、という声が瞼の向こうで囁かれた。


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