![]() 神様は俺を指差して笑った3 キッチンで目覚まし時計が鳴っている。八時だ。自分の家の目覚まし時計はキッチンにおいてある。枕元に置いておくと音のうるささに耐えられず、目覚まし時計を投げつけて壊してしまうからだった。それは目覚まし時計だけでなく、家の壁もだった。どうせ自分の家はしがないワンルームだ。キッチンでも十分に目覚まし時計は活躍する。 ベッドからのそのそと這い出てキッチンに立つ。部屋は夜を残して冷たく、鳴り響く時計を止めると、それもやはり冷たかった。コンロにヤカンをかけて、火をつける。湯が沸く前にバスルームに行って顔を洗う、髪を梳かす。そういえば、昨日は風呂に入りそびれてしまった。顔もひどいことになっているが、ワックスをつけたまま眠ってしまったために寝癖がひどい。せめて髪だけでも洗おう。カランを捻って湯を出す。シャンプーの香りが空腹の胃を直撃して、気持ちが悪くなってきた。何か飲んで、それだけで十分だ。朝食はコンビニに寄るつもりだったが、その分ゆっくりできるだろう。出来るだけ外に出たくない。出来るだけ一人でいたい。一人でいれば誰かを傷付けることはないし、傷付くこともない。 違う。何も感じないようにならなければ。そうすれば一人だろうと誰といようと関係ないのだから。 きゅ、とカランを捻って湯を止める。キッチンでヤカンが鳴っている。適当に髪を拭いて、インスタントのミルクティーを大きなマグカップに濃いめになるようにいれる。今くらいは、いいだろう。一人でいるときくらい、安心したっていいだろう。甘いもの、温かいものに目を細めたっていいはずだ。 そう思ったのがいけなかったのか、昨日止まったはずの涙がまた零れる。ふたつぶも、さんつぶも。止まる気配がない。拭っても、擦っても、叩いてもとまらない。 今日はもう駄目だ。休もう。外に出るのがこわいから、自分の感情をセーブする自信がないからではなくて、ただ、涙が止まらなくて、こんな顔をしてそとになんて出られないから休むだけだ。こんな顔、人に同情を求めているのと変わらない。そしてもしも、優しく慰められでもすれば、 携帯電話を取り出す。短縮の一番。先輩に電話する。事務所に電話しないのは少し狡いかもしれない。だけど、あのよくわからない力のことを話さないまま会社に休みを申し出ることは自分にはあまりに難しい。先輩だったら、きっとなんとかできるはずだ。 「もしもし、トムさん、俺です」 「おはよーさん、今起きたのか?今から出れば全然間に合うからちゃんと来いよな」 「おれ、今日休ませてもらえないですか?」 電話口でも涙は止まってくれず、声は鼻声だった。多分、先輩には自分が泣いているのが伝わってしまっただろう。 「ダメに決まってるだろ。会社ナメんな。社会人は40度以上の熱とトイレから出られないレベルの下痢の時しか休めないんだよ」 「涙が止まらないんです。止まらなくって、だから、外に出れません」 「静雄、おいで。会社出てこいよ。涙が止まらないから外に出れないなんてそんなことないだろ?ちゃんと出てこい。一回休んだら、次もいいか、ってなっちまう。それに、お前は悪いことなんにもしてないんだから、堂々とくればいい。泣くことだってないんだ。静雄、わかったか?」 喉がひくひくと痙攣している。とりあえず、仕事に行こう。先輩は、もしも引っ張ってしまっても大丈夫だ。絶対に自分を許してくれる。それに、先輩ならいつも近くにいるから引っ張っても、怪我したりだとかはそんなに危なくない。先輩が居れば、きっと、自分は大丈夫だ。 「先輩、おれ、いきます。いまから家でます」 「よし!どうせお前朝飯食ってねえんだろ?メシ買っとくからそのまま来いよ。パンとご飯どっちがいい?」 「メロンパンがいいです」 「よしよし!メロンパンな!」 もしか仮にこの力がこの先永遠になくならなかったとして、俺は何とかこの力とも折り合いをつけていかなくちゃいけないだろう。その時に生きる術を考えても自分に思い付くのは、結局今の生活と変わらない。だから、やっぱり、自分は仕事に行かなくてはならない。 カップの中に残っていたミルクティーを飲みきって立ち上がる。靴を履いて、ドアノブを掴む。どんなドアも開けば何があるかわからない。だけれど、ドアを開かなければなんの喜びもない。ドアを開く。 「おはようシズちゃん!」 ドアを閉じようとした。しかし折原は既に半身をドアの中に滑り込ませていて、もし無理にドアを閉めれば大惨事となることは容易に予想出来る。と、すると逆に力を入れてドアを閉じるべきなのだが、しかしそれはできない。そんなことは、出来ない。 「え?閉めないの?まあその方がありがたいけど。さすがにお腹と背中がくっつくなんて冗談じゃ済まないからね。ねえ、シズちゃん。俺は心配して来てあげたんだよ?君が変な力を手に入れて、それで君が傷ついてるんじゃないかな、って思ってさ。ほらね、現に目が真っ赤だよ」 既にドアノブには手がかかっているだけで、さほど力は入っていなかった。だけれど、それはつまりドアの付近に、折原の手の届く範囲に体が置かれていたということである。 折原の手が頬に触れた。頬を包んで目元を擦る。 「シズちゃん、泣いたでしょ。そんなに悲しいの?」 折原は既にドアの内側に入り込んでしまった。それと同時に自分もいっぱいいっぱいになってしまった。何とか冷静に判断していたけれど、もう我慢仕切れなかった。 だって、もう二度と会えないとおもって、会わないと決めたのだ。諦めることにしたのに。なのに、今自分に触れているのは折原臨也だ。他の誰でもない、折原臨也だ。 「わっ!」 折原が胸の中に倒れ込んでくる。恐らく自分が引っ張ったせいだろう。折原とこんなにも近く触れたことは今までなかった。あんなに優しく触れられた事もなかったし、こうして自分が触れたままで許していることもなかった。 はじめて、もしかしたら生まれてからはじめて、ふれたいと思ったものにふれることが出来たた気がした。 折原の手が腰に回って、抱きしめられた。折原が胸元でくぐもった声で笑う。 「ははは!シズちゃんチョロい!チョロすぎる!!俺がシズちゃんの事本気で心配するはずないじゃん!なのにその態度!はあ…心底思うよ。シズちゃん、馬鹿だなあ!!」 胸元から顔を上げた折原の顔はこれ以上なく近かった。間近で見た折原の顔は、今まで見たこともないほどに晴々としていて満足そうだった。本当に、こんな顔は今まで見たことがなかった。 「おめでとうシズちゃん!これで君も紛うことなき化け物だ!あーあ、残念だなあ。また人間の知り合いがへっちゃった!あ、シズちゃんは前から人間じゃなかったね。ってことは俺の知り合いの増減はないわけだ。シズちゃんもぼろぼろになってくれたようで、俺は心の底から嬉しいよ。ああ、シズちゃん、泣いてるの?可哀相だね。ほら、泣かないで」 涙があふれてあふれて止まらなかった。折原がまた目元を擦る。涙の粒を払うように優しい指先だった。胸の奥が痛くて痛くてたまらなかった。嬉しかった、悲しかった、辛かった、痛かった、だけどそれでも嬉しかった。 嬉しかった。 「はあ、そろそろ泣き止んでよ…。ほら、そろそろ会社に間に合わなくなるよ。俺はお休みだけどね。大体なんで朝っぱらから泣いてるの?泣かす楽しみ半減しちゃったじゃん。ねえ、そんな顔で外出るつもりだったの?大好きな先輩に慰めてもらう気だったの?馬鹿じゃないの?その前に俺に会うことは全く考えなかったわけ。それはそれでいいよ。多分考えたくなかったんだよね。こうなるの解ってるもんね。シズちゃんは人間になりたいんだもんね」 何か口を開こうとするたびに涙があふれて止まらなくて、折原はその度に涙を拭った。らしくもなく黙ったままの自分に違和感を感じているようだ。相手もらしくもなく慰めようとまでしている。全くらしくない。 こんなのは、らしくない。 「シズちゃん…」 折原の肩に手を置いて、自分から引きはがす。これでそのぽかんとした顔を殴ることができればまさにいつも通りに戻れるのだが、そこまではいいだろう。きっとそこまでさせないでほしい。 「帰れ」 頼んでやってもいい。どうかこれで帰ってほしい。それでもう、二度と自分の前に現れないでほしい。もういい。嬉しいのも悲しいのも、これ以上のものは必要ない。もう十分だ。折原が囁いた甘言はこれ以上なく自分を喜ばせたし、これ以上なく自分を悲しませた。きっと今までにこんなにも悲しいことや嬉しいことがあったのなら、自分はとうに折原のことを諦められただろうに、こんなことはいままでなかった。もう満足だ。もうたくさんだ。もう諦めよう。もう、二度と会わない。 やっと自分は決心出来た。いままで、そうしなければ、と思い続けて、だけど諦めきれなくて、そのままずるずると続けていたけれど、やっと自分は折原を諦められるのだ。折原の肩から手を放す。仕事に行こう。 だけれど、折原は先程のように胸へと倒れ込む。もう一度触れた体温に少しばかり心がざわめく。 「臨也、やめろよ…」 そう言って今度は折原を強めに突き飛ばす。だけれど、折原はまた胸の中に飛び込んでくる。 「ふざけるな!このノミ蟲野郎!!離せ!触るな!消えろ!」 「ふざけんなはこっちの台詞だよこの化け物!!そっちが離せよ!!迷惑してんのはこっちだよ!」 「そんなに人のことおちょくって楽しいか?あ?さっさと離れろ虫酸が走るんだよ!」 「だから離れないんだって言ってんだろ!シズちゃんのわけわかんない力で引っ張られてて離れられないんだよ!どうやったら離れるの?このまま離れないわけ?そんなわけない!そんなの人生終わったも同然じゃないか!シズちゃんと一生一緒なんて無理!こっちだって鳥肌たっちゃう!」 言われた言葉は聞かなかった事にして、もう一度折原を自分から引きはがす。ここまでの距離は取れる。だけど、手を放すと折原が倒れ込んでくる。何度繰り返しても駄目。先輩の時は、引っ張られてくっついてもそのあとは離れられたのに。 無駄とは半ば解りつつも俺も折原も必死でお互いから距離をとろうとする。俺はともかく折原は、ある程度近くても触れ合わない距離を確保できればいいと思いはじめたらしい。俺はさっさとこいつの顔が見えないところへ消えたかった。 なのにこの必死の格闘で得たものは、十分なパーソナルスペースでもなく、長年の恋心との決別でもなく、限界まで離れられる距離は相手と手を繋いだ時にめいいっぱい伸ばした自分の腕の長さの分だけだという情報だけだった。ほんの小指の爪先だけでも触れ合っていれば折原が自分の元に引っ張られることはないのだが、逆にほんの少しでも離れれば容赦なく引き込んでしまう。 握りあった手がじっとりと汗ばんでいる。これはお互いの妥協案だった。無理に離そうとして体力を使うよりも、無難なところで手を打つ事にしたのだ。 「…仕事行くか……」 「…仕方ないけど、付き合ってあげるよ。これでシズちゃんの仕事がなくなって餓死でもされたら寝覚め悪いからね」 握った掌の、指の先が冷たい。自分の指も、折原の指も冷たい。手から自分の緊張が汗と一緒に漏れ出る気がした。 (もうすこしだけ) 繋いだ手が離れるその時まで、もうすこしだけ、この恋心を捨てることは保留にしておくことにしよう。この男の手が離れて行くとき、その時には、きっとこの手とともにその面影も捨て去って今度こそ化け物となって、人間であることを忘れ去ろう。もしも神様が俺を嘲りたいと思うのなら、もうすこしだけ喜びを味あわせてほしい。その後には、どんなに笑ってくれたって構わないから。 これでやっと本編突入。もう少しお付き合い下さい。 ![]() |