神様は俺を指差して笑った 1




走っている。焦っている。どうしようどうしよう!どうしようもねえ!走るしかねえ!!
時間はもう少しで九時になってしまうだろう。九時。出社時間に遅れそうなのだ。走る足が地面に着くまでの時間がとてももどかしい。馬鹿みたいな筋力を持っていても、足はさほど速くないのだと実は自覚している。追われることが少ないからだ。そういえば、新宿の害虫に自分が追いつけたことはない。あいつは悔しいくらいにとても足が速い。体の動かし方をよく知っているのだとおもう。そういう知識があったのならば、自分もまっとうな足の速さを手に入れることが出来たのだろうか。こんな限界以上の力をつかって目茶苦茶に走るのではなくて、自分の筋肉を壊れないギリギリのところで最大限の走りをすることが出来たのだろうか。

あいつは、自分の走り方をキリンのようだと言っていた。「確かに普通には速いんだけどさあ、足が長いからモーションがゆっくり見えるんだよね。あと、俺からしたら見えるだけじゃなくって、足動かすの遅すぎ。前に進む動力だけじゃなくって地面を蹴るときに一緒に上向きの力が掛かってるんだよ。だから滞空時間が長くなって、結果的に前向きの力が少なくなるんだよ。つまり何が言いたいかって、教えてあげたんだからそんな草食動物みたいな走り方してないで、俺に食らいついてご覧ってことだよ!まあ、教えてあげたって出来ないのわかってるから教えたんだけどね!」あいつはキリンを馬鹿にしすぎてる。キリンは肉食獣なんて一蹴りで殺せる。ただ、食料にならないから率先してそうしないだけだ。あいつをぶん殴ってその頭にアニマルチャンネル仕込みの知識を叩き込みたかったが、やはり俺はあいつに追いつけなかった。やはり、そんな知識では自分の力を押さえ付けることは出来ないのだ。やっぱり俺の滞空時間は長い。速くは走れない。だけど、なんとか事務所まではたどり着いた。ポケットに入れた携帯の時計を見ると08:59の表示。間に合った!!俺がキリンじゃなくて人間でよかった!人間努力でなんとか欠点を補える。つまり俺が今時間に間に合ったのは、出来る限り速く着こうと努力したからだ。
息を切らして事務所のドアを開こうとドアノブを掴む。回す。いつもよりもずっと軽い感触。しまった。



「いっつも言ってるだろ?ドアを開けるときは心を落ち着けなくちゃダメだ、って」

「はい…」


いつも事務所のドアが重いのは、俺が『普通の力』でドアを開けるからだ。この『馬鹿みたいな力』は、普通の生活をしている限りでは出ない。確かに普通の人と同じ筋肉の質ではないが、それは全力で力を出したときにその力に耐えられる筋肉だというだけで、ものすごく強い筋力の筋肉がついているわけではない。だから、体質的に肉の付かない体形らしい自分は、ぱっと見ひょろひょろしていて、少し情けない体形だ。もう少し男らしい体形になりたいとは思うのだが、筋肉をつけるためにトレーニングするのは怖かった。今の力がもっと強くなってしまったらどうしよう。それでなくても、負荷に体が耐えられるようになると、より強い負荷を体にかけても平気になって、実質あの力が発揮されたときに出る力の大きさは増大している。その分、いつか取り返しの付かないことをしてしまうだろうという不安も増していく。そして今日もドアノブを壊してしまった。


「どこのドアだってな、開けるときは平常心でないとダメだ。ドアの向こうは見えないんだから、何が出てくるかわかんねえだろ?そう思ってドアを開けろ。そしたら怖いから、焦ってドアを開けなくて済むだろ?」

「…すみません、トムさん……」

「ドアノブなんて取り替えればいいんだよ。一件目に行く前にいつもの鍵屋に寄ってから行こうな。大丈夫、うちの会社飲み会以外であんまり経費使うとこなんてねえんだから。ドアノブなんて一万ありゃあ直るよ」


一万円。自分の給料のことを考えると、その金額はあまり小さいとは言えない。もしも弁償しろと言われたら、最近靴底の擦り減ってきた靴を(弟がくれた、履き心地の良い革靴だ)靴屋に出すのを今月は見送らなくてはならないだろう。こんなことなら、遅刻してもいいと思えればよかった。59分には着いていたのだから、ちゃんと落ち着いていれば十分間に合ったし一万円を余計に使うことはなかった。もし仮に遅刻しても自分一人が始末書を書けば済むことだったのに。


「でも惜しかったなあ。ドアノブが壊れなかったら遅刻してなかったのに。うちのドアノブがもっと丈夫だったらよかったのにな」


そう言って、先輩の手が背中ををぽんぽんと叩く。これだから、自分は遅刻してもいいだなんて思うことが出来ないのだ。心臓がしぼられるように痛い。多分これは罪悪感だ。でも、同時に、触れられた背中がむずむずとくすぐったい。多分これは嬉しさだ。許してもらえて嬉しかった。少なくとも、慰めの言葉をかけてくれているという事実が嬉しい。


「さ、いくべ!まずは鍵屋のドアを開けに!」

「はい!」


先輩が前を歩く。先輩は自分よりも少しだけ歩くのが速い。だから、いつも自分はその背中についていく。いつかあんな風になりたい。あんなふうに、ついていきたいと思うような背中をもつ男になりたい。

と、急にその背中が近付いた。


「トムさん?どうかしたんすか?」

「んん?いや、なんか…引っ張られた?」


自分の胸にぶつかって止まった先輩が、お前引っ張ったか?と、聞いたが首を振る。引っ張っていないし、そんなことできない。尊敬する先輩を引っ張るなんて、失敬だ。


「うーん…。なんだろうなあ。躓いたわけでもねえんだけどなあ」


不思議がりながらも、刻々と時間は過ぎていく。あまり時間が過ぎると債務者の生活時間とあわなくなってしまう。そうすると今日の分の回収ノルマが達成できなくなってしまう。
先輩も同じことを思ったのか、ちらりと時計を見ると、どうせ修理は事務所に来てもらわないと出来ないし鍵屋はやっぱり電話で頼んで、一件目の回収に行こう、と言った。「債務者の家のドアは怖いぞ。刺されるかもしんねえし。ホラ、怖いだろ。ゆっくり開けような」と付け加えるのも忘れずに。




回収に行く先々で、先輩は俺にくっついた。一件目で本当に包丁を振りかざしてきた債権者から俺を庇って突き飛ばしたあと、体勢が崩れているにもかかわらず、俺の胸へ。トムさんも俺も債務者も顔を見合わせてしまった。ぽかんとしている間に回収出来たのでいいのだが。二件目に行く途中では、朝メシを抜いてきた俺におしるこを奢ってくれたのだが、俺が缶をあけると前を歩いていた先輩が缶にぶつかった。幸い中身が先輩にかかることは無かったが、やはり不思議だった。二件目は存外平穏に回収できて、先輩から褒められた。いい歳しても、褒められるのは嬉しい。暴力に頼ることなく回収できたことも嬉しくてたまらなかった。するとやはり、先輩がくっついてきた。
このあたりから、パターンがわかりはじめてきた。

先輩がくっつくのは俺が嬉しいと思った時だ。なんでかはわからないが、俺が嬉しいと思うと先輩がくっつく。先輩が言うには『引っ張られる』のが一番近い感覚らしい。


「静雄には引力があるのかもなあ。これ使えれば女の子触り放題だぞ。羨ましいぜ。近くに俺しかいなくてごめんな」


と、言ってくれはしたが、俺自身どういう仕組みでこうなってるかわからないから、どう返せばいいのか迷ってしまった。もしかしたら、何か悪影響があるかもしれないし。
三件目に行く途中で、俺はもう喜ぶのをやめようと決意した。先輩に何かあってからでは遅い。先輩にもそう言って「俺を喜ばせないでください!」と言ったが、爆笑されてしまった。

三件目、四件目、五件目と回収して(その間も何度か先輩を引っ張ってしまった)、あとは事務所に帰ろうとしていた時だった。公園の前を差し掛かるとセルティが向かいから走っていた。手を振ると、片手を上げて振り返してくれた。だが、次の瞬間、セルティがバイクから落ちた。まさか、と思った。セルティのバイクは普通のバイクではない。現に、セルティが落ちたあとも、車体を傾けることなく真っ直ぐ主人を追っている。セルティは、自分の方に向かっている。直感した。セルティも『引っ張られている』のだ。現にセルティの足は動いていない。動いていないのに自分の方へ引っ張られている。
やはり、先輩と同じように自分の胸にぶつかって止まった。セルティはおろおろして、取出そうとした携帯電話を落としかけてしまった。(影で受け止めたので壊れたりはしなかったのだが)


『ごめん静雄!なんか引っ張られた!』

「いや、こっちこそごめんな。多分引っ張ってるの俺だわ」

『静雄が?手が伸びる悪魔の実でも食べたのか?』

「いや、よくわかんねえ…。でも、ゴム人間ではねえよ。なんか、俺が喜ぶと近くの人間引っ張っちまうみてえだ」

そこで、あれ?と気がついた。後ろをふりかえる。先輩がいる。先輩はくっついていない。そんなに遠い距離じゃない。セルティがこっちに来るだろうと、少し駆け出していたのだが、先輩もそれを追ってきたのかすぐ後ろにいる。すぐ後ろだが、くっついてはいない。


「先輩は引っ張られませんでしたか…?」

「ああ。今は平気だったな。そのお姉さんだけ引っ張られたみてえだ」

「ごめんな。なんでなんだろうな…。怪我しなかったか?」

『私は大丈夫。だけど、どうしたんだ?喜ぶと引っ張るのか?』

「喜ばせた人間のこと引っ張る感じだよなあ。さっきから」

「すみません。本当に、すみません…ごめんなさい!」

「気にするなよ!俺は静雄喜んでくれたのが伝わるから結構楽しいぜ」

『私も、怪我したりしてないから全然大丈夫だ。静雄が私と会って嬉しいなら、私も嬉しい』


二人の言葉は本当に嬉しかった。それに反応してべったりくっついた二人を、自分の手でもそっと抱きしめた。抱き返されると、胸が詰まって涙が出てきた。不安と罪悪感と恐怖と、でも何よりも嬉しかった。









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