標的5
一定の沈黙が流れたところで蓮華は切り出した。
「ところで、何か用事があったんじゃあなかったんですか?」
「ああ、そうだ。空柩が持ち込んでいるコーヒー豆の残りがわずかしかなかったから、見回りついでに買ってこようかと」
「……草壁先輩がいたんだっけ」
蓮華は草壁に聞こえるか聞こえないかくらいの声で、呟く。草壁がふところから取り出したのは、蓮華が愛飲しているコーヒーの袋だった。蓮華は特別コーヒーに凝っているというわけではないが、いつだったか、まだ父親と仲良く話なんかしていた頃に彼がこれを好んで飲んでいるのを見ていた。いつしか自分もある程度、苦いものが飲めるようになり味の分別が付くと気が付いたら父親と同じものを好んでいた。――気分が落ち着くような気がして。
まぎれもなく蓮華の物であるそれに、思わず表情が渋くなる。
――残量が少しだったから、帰りにでも買って行こうと思ってたんだけどなぁ。
となんだかんだ言って後輩おもいの草壁をどうしたものかと考えてしまう。先輩に気をつかわせてしまって申し訳ない気持ちも多くあるが、それ以上に、
――まずったなぁ。
という焦りの方が強かった。でも、まだセーフだろうか。さしあたって、今は適当な理由なりなんなりをつけて、草壁から袋を奪還してしまうのが蓮華にとっての最優先だった。
「ごめんなさい、わたしが買ってくるのでだいじょうぶですよ。お店も入り組んだところにありますし――あ、そうですね、ついでに草壁先輩が今からやる予定の見回りもやっておきますー」
「しかし……」
言い淀む草壁から、コーヒーの袋を奪い取る。
「草壁先輩はわたしと違って忙しいでしょう? それに、この並盛で雲雀先輩以外に、草壁先輩に雑用の真似ごとをさせることのできる人なんていませんよ」
「用事のついでだから、そこまで負担になるというわけでは」
「たまにはいいじゃないですかー。草壁先輩にはお世話になりっぱなしですしね」
「……そこまで言うなら、よろしく頼むとしようか」
しつこく食い下がる蓮華に、草壁が折れた。
事実、草壁は忙しい。蓮華が行くと言っている見回りだが、実際は雲雀が見回った後の『始末』が主だ。散らかしたら片づけるという義務感のようなものに従っていただけ。信頼のおけない者に任せることは遠慮をしたいところだが、その点は蓮華に関しては――大丈夫だろう、多分。
さぼるということもないだろう。その間に草壁も他の仕事を済ませてしまうことが出来る。草壁としては助かる面もあるわけだ。
「じゃあ、行ってきますねー」
「見てまわるだけといってもいいが、危ないと思ったらすぐに連絡をするように」
「そんなに心配してくれなくても、だいじょうぶですよ」
――わたしは腕章をつけてないから、風紀に関する危険には巻き込まれませんしね。
とは言葉を続けない。
腕章を付ける、付けないの論争は、蓮華が風紀委員に入ることになってから散々やってきた。それこそ、耳にタコが出来るくらいには続けてきたもので。雲雀におどされようと、草壁に諭されようと、しばらくは付けてあげるつもりはさらさらない。
蓮華としては、人目見ただけで風紀の者だとばれるような腕章は出来ることなら付けたくない。風紀に入っているのも天下の雲雀さまのご遺志であって、蓮華が自分から入ろうと思うなんてとてもじゃないが、考えられることではなかった。あの時は蓮華もその場の状況の方が面倒に思えて、雲雀に誘われつい承諾を返してしまったが、風紀に入るなんて口走るんじゃなかったなぁ、と今となっては思ってしまう。
ひとつを承諾してしまったら、またひとつ、そしてもうひとつとなっていくのは目に見えている。だから、まずひとつ目として、風紀に入っていまった蓮華としては、腕章という壁を突き破るわけにはいかなかった。それを受け入れてしまったら、外でも腕章をして歩くことを強要されることは間違いなくて。歩いているだけで殴る的にされるようなことはかなわないと蓮華は思っている。
「車に気をつけて行ってこいよ」
「さすがに、わたしも小学生じゃありませんから……あっ」
「どうした?」
言って、首を捻る草壁。リーゼントの大男がするその動作はなんとも不気味であるのは、蓮華の中でだけの内緒の話だ。
「やっぱり一回、学校に戻ってきた方がいいんでしょうか?」
それとも、そのまま家に?
草壁は、そんな後輩の意図をくみ、微苦笑しながら、
「委員長には言っておくから、それが済んだら帰ったらいい」
と、紅一点の少女を送りだすのであった。
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